ひとりの時間色鉛筆(2)

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ひとりの時間色鉛筆(2)

母親の照美と父親の陸雄(りくお)が出会ったのもその海で、ちょっとひと泳ぎしてくると言って走り出す陸雄を目で追いながら、照美は陸雄と出会った頃の話をうみにしたのだったが、太陽に焼かれた砂たちが腹いせのようにうみの足の裏を焼こうとする熱さと、海水でぎしぎしになった髪の毛が気になって、うみにはうん、うん、と相槌をうつのが精いっぱいだった。  はっきり覚えているのは、潮風の運ぶ心地よい夏の匂いや、目を瞑った時の波のぶつかり合う音。海の上を気持ちよさそうに飛ぶ鳥たちだった。そしてその帰り道には水族館に行き海の中にもう一つ世界があるのを知った。  小さな窓が通路の左右にいくつもあって、窓を覗くとそこには様々な海の生き物がいた。窓の横にはそれぞれに名前や特徴が書かれていて、なかには恥ずかしがりやな性格とか、怒りっぽい性格などと書いてあるものもあり、それがうみにはたまらなく可笑しかった。  通路を抜けると壁一面に海の世界が広がって、まるで映画館の大きなスクリーンのような窓から見る世界に、うみは生まれて初めて自分の心臓の音を聞いた。  うみの体よりも大きな魚がその大きさを自慢するかのように何度も目の前を通り過ぎ、泳いでいるのか流されているのかよく分からない魚や、何度も練習したかのように規則正しく大勢で同じ動きをする魚たちがいた。  壁一面の海との境界に、全身で貼りついていたうみを陸雄が呼ぶと、そこには魚の大きさを人間と比較した絵が描かれてあった。うみはその一番上に、ひと際大きな魚の絵と、泳いでいる姿の小さな人間の絵が描かれているのを見つけた。 「これほんと? 人が食べられちゃいそう」とうみが聞くと、「本当だよ。くじらは海の上にでると、ここから海水をぶわって出すんだ」と言ってくじらの上のあたりを指差して、両手を頭の上から腰のあたりに向かって大きく広げてみせた。 「くじらさんが海の世界をつくってるんだね」  うみがそう言って笑うと、陸雄もにこりと笑ってうみの頭に手を置いた。 「そうかもしれないね」  そして陸雄の大きな手に体を掴まれて、「ぶわッ」という言葉と共にうみは大きく抱き上げられたのだった。  三つ目のクッキーを食べるかどうかを悩んで、お腹いっぱいにならなければ食べ過ぎにならない、と自分自身を説得したところで玄関から鍵の開く音がした。 「ただいま。うみちょっと荷物手伝って」  ドアが開くのとほぼ同時に照美の声がした。  椅子から飛び降りて絵日記の描かれたノートをランドセルにしまうと、照美を玄関まで迎えに行きおかえりの「お」まで言ったところでうみより先に照美が、クッキー食べたの? と訊いてきた。  うみはびっくりして「お腹いっぱいになるまで食べてないから大丈夫」とそう言うつもりが「もっと食べれるから大丈夫」となってしまい慌てて「少しだけだから」と付け加える。  照美は小さく溜息をついて、「食べ過ぎはだめって言ってるのに!」そう言いながら右手の親指でうみの口元についたチョコレートを拭った。
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