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 ドクンドクンと心臓の音が聞こえた。  蛍汰はまぶたをそっと開き、投げ出した自分の足を見た。左腕はまだ中途半端に上げさせられていて、手首は感覚がもうおかしくなっている。相変わらずのバスルームで、心臓だけが異様に強く鼓動を打つ。体の感覚はほとんどが麻痺していた。目もしっかり開くことができず、首を上げることも難しい。それでも光は強く感じたし、音もよく聞こえた。何か甘い香りの煙が漂っている。そのせいで視界が白いのかもしれない。 「けいた」と自分を呼ぶ声がしている。寒いような暑いような、気持ちの悪い震えが肌を襲った。吐き気もする。眠りたいが、心臓が怖いほど跳ねるので眠れない。 「十二時間が過ぎたが、何も状況は変わらない。わかるか? おまえは捨てられたんだ。悔しいだろ? あんなに尽くしたおまえを隊は簡単に見限る。蛍汰、生きろ。生きて思い知らせてやれ。おまえこそが国を救える」  よくわからない。  蛍汰は目を閉じる。頭が重い。 「愛国同盟には背後にヤクザもついてる。おまえの父親が韓国人だとか言い出したのもあいつらだ。あいつら、ターゲットの家を割り出して、ポストに爆弾入れたりする奴らだ。家族を守るつもりなら殲滅させろ」  谷垣が言う。意味がよくわからない。  家族を守るつもりなら殲滅させろ。そのフレーズがずっと頭に繰り返される。 「愛国同盟の支持母体には、おまえが倒さないといけない奴がいる。そいつの名前は中谷幹男。おまえをSDAに入れた張本人だ。今は政治家として暮らしているが、初等教育課程のベースを立案したのはあの男だ。私はその計画書を元に進めたに過ぎない。子どもたちが自殺してしまったのは損失だったが、それによっておまえは強くなった。そういうことも中谷が認め、そして今は全てをなかったことにしようとしている。蛍汰、復唱しろ。中谷幹男だ」  蛍汰は苦痛を浮かべた。嫌だ。 「いい子だ。智実を守りたいだろう? 子どもを殺されたくないだろ? だったらキッチリ仕事をしろ。SDAはもう助けに来ない。だったらおまえは自力で生き残るしかない。奴らを頼るな。奴らはおまえを殺そうとしている。航たちを殺したのも奴らだ」  航。蛍汰は懐かしい名前にピクリと唇を動かした。乱暴だけど牽引力は誰よりもあった航。関西弁でいつも面白いことを言っていた。航といれば笑いが絶えなかった。  谷垣は傍らのケースから注射器を取り出した。幻覚作用のあるドラッグを飲ませたが、もっと効果を上げるためにも、覚醒作用のあるものを静脈注射しておく方がいい。即効性と強い効果が得られる。元々、蛍汰が催眠に強い体質を持っているのはわかっている。だったら念には念を入れて染み込ませなければいけない。 「おまえを利用して裏切ったSDAを許すな。航や純を殺した奴らを許すな。蛍汰、二人で協力してSDAに革命を起こそう。誰にも遠慮せず、思う通りの国防ができる国にしないか。おまえが望む平和を生み出すものに変化させよう。愚かな国民をもっと強い国民に変えることが私にならできる。武藤はおまえの側面支援をしてくれる。わかるな? まずは邪魔をする者の排除が必要だ。元長官の梶川の排除も必要だ。梶川は航や純の死がわかったとき、何と言ったと思う? これで始末する手間が省けた、そう言ったんだぞ。始末するつもりだったんだ」  蛍汰の腕に注射針を刺すと、蛍汰はカタカタと小さく震えた。抗っているらしい。無駄なことはするな。 「今夜、梶川と中谷が会食をする。店まで連れて行ってやるから、おまえは侵入し二人を排除しろ。舞台は設定してやるから、おまえは仕事をしろ。そうしたら私がおまえを守ってやる。大事に守ってやるぞ。おまえのことも、智実も子どももな」  谷垣は脱力してしまった蛍汰に声をかけた。聞こえているかどうかわからないが、意識の深いところには届いているはずだ。だから繰り返す。梶川や中谷の名前と、SDAが裏切ったということ、彼らが愛国同盟と組んで智実たちを襲うという妄想。蛍汰はそれに取り込まれまいと抵抗しているが、薬の力でそれも脆く壊れてしまう。 「蛍汰、悪を許すな。航や純、星留の名誉を守れ。奴らに処罰を下し正義を貫け。新しい国を作るんだ」  谷垣は蛍汰の耳に囁いた。蛍汰の指がピクリと動く。  いい反応だ。谷垣はニヤリと笑った。  車いすに乗り、リビングに戻ると帰ってきていた武藤が心配そうに谷垣を見た。 「矢嶋君の状態はどうですか」  武藤が言って、谷垣はうなずいた。 「悪くない。まだ反発は強いが、説得のスキはありそうだった。後で体調を見てやるついでに、もう一度話してみる」 「そうですか。うまく行くといいんですがね。矢嶋君は強情そうなので…ちょっと心配です」  武藤の言葉に、谷垣は内心ムッとした。 「蛍汰の心配はいい。君は君の仕事をしろ。蛍汰が動いたら止まらんぞ。奴を駒として使うつもりがあるなら、その上を常に準備しておきたまえ。蛍汰は正義という大義の元に行動する。それを生かすも殺すも君の腕次第だ」  武藤はそれを聞いて顔を引き締める。 「わかってます。大丈夫です。矢嶋君をヒーローに仕立て上げますよ」  谷垣はフンと軽く答えて車いすを窓際に進めた。  SDAは今頃、偽の情報に惑わされて、東京湾のあちこちを探しているはずだ。蛍汰は朦朧としてはいるが、救助が来ないことに対しては不安に思っているに違いない。当初の打ち合わせがあったかどうかは知らないが、救助要請をしてまでも味方が来ないことは蛍汰を戸惑わせるはずだった。不安や不信、そして迷いや疑いは心理コントロールの好物である。蛍汰は今、体調も弱っており、精神的にも負荷が強い。辛い状況から逃れたくて、谷垣の声に身を委ねる可能性は高まっている。  こっちに来い、蛍汰。谷垣は空を見ながら思う。  素直に身を任せろ。その方が幸せだぞ。
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