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 信号が赤色のまま点滅しているのを見ながら、注意深く交差点に侵入し、左折する。大通りを一筋入ると住宅街になり、比較的裕福なマンションがいくつかと、小さな公園を過ぎた辺りからはガレージ付き、小さな庭付き一戸建ての数十年前に整備された住宅街が広がる。大通りから隠れるように昔ながらの商店街も残っていて、数年前にできた中規模スーパーマーケットを中心にこの街が動いているというのが蛍汰の印象だった。  勤務先のSDA本部までは愛車のクロスバイクで三十分ほど。二年前に結婚した当初は、とにかく節約したくて自転車通勤を選んだが、もうすぐ子どもが二歳になり、半年もすれば二人目が生まれるという立場になって、自家用車も必要だなぁとぼんやり思いながら自宅となっている官舎のマンション駐輪場に自転車を停めた。  午前三時。野良猫みたいにひっそりとオートロックの入口に立つ。電子キーをかざすと遠慮なくピッ、ブオーンという音がしてエレベータホールのドアが開く。自分の時計端末にも「帰舎」という文字が出る。蛍汰はそれを見るともなく見て、エレベータのボタンを押した。開いた箱の中に入り、「8」を押して壁にもたれる。後は勝手に運んでくれると思うと、ようやく息をつくことができた。気づくと髪から汗が落ちていた。目一杯急いでみたが、やはり十二時前には帰れなかった。  八階について、角の部屋に行く。アルファベットで「YAJIMA」と書かれたプレートのついた小さな門扉があって、中にカラフルな砂遊びセットが片付いている。蛍汰は少し深く息をつき、それからそうっと音を立てないように慎重に家に入った。玄関に義母の靴を見て、思わず落ち込む。きっと明日の朝は苦情を言われるのだろう。  廊下のすぐ横にある客間の前は、これ以上ないぐらいに静かに歩き、奥のLDKに入ってようやく背負っていたリュックを下ろした。電灯はつけず、常夜灯の薄明かりのままダイニングテーブルの上を見た。小さなメモがあり、鍵につけたマグライトで照らす。 「蛍汰へ おつかれさま 冷蔵庫にケーキ置いてます」  智実の細い文字が見えて、蛍汰は冷蔵庫を覗いた。イチゴと燃えさしのろうそくが一本乗ったケーキが一切れ、ラップに包まれていた。付箋が張ってあり、智実が描いたらしい蛍汰の似顔絵と「パパ」という文字があった。もうすぐ二歳になる娘の沙羅が食べたがるのを阻止するためにつけたタグだろうということは蛍汰にもわかった。  蛍汰は苦笑いして、沙羅の寝顔を見に寝室へ行った。  沙羅も智実もぐっすり眠っている。  沙羅の寝顔をしばらく見つめてから、蛍汰はそっと寝室のドアを閉めた。  少子高齢化が進み、子どもが減ったと言われた時代を経て、常に若者が足りないという状況が続いている。政府は子どもを持つ家庭に対し手当をつけたり、育児補助、福祉の充実を図ってきたが、大きな成果を上げられずに時が過ぎていた。年金制度は実質瓦解し、医療保険にも入っていない子どもや貧困層が目立ってきた。貧富差が大きくなり、社会的な不安はどんよりとこの国の上を覆っている。  蛍汰が生まれる前、国内で中学生による大規模テロが行われた。爆弾の材料も、薬剤調合の方法もネットで手に入れた彼らの行動は当時の大人たちを震撼させた。その事件を機に、ようやく未成年に対する法整備も行われ、そして国内テロへの対策も一気にすすめられた。  既に治安維持を警察、国防を軍、という分担には若手人口の減少で限界があった。もちろん非常時にはSDAは国防軍として動くが、平常は警察のサポートもすることになった。それが哨戒隊員である。彼らが濃いグリーンの戦闘服で街に立つことに誰も違和感を持たなくなり、蛍汰は生まれた時からその状況で育ってきた。  国内テロは次第に増え、怨恨による犯罪よりも目立つようになった。それも社会的に負担と不安の大きな若者、とりわけ未成年の学生たちによる訴えや自暴自棄な行動が多くなった。彼らの行動を調査するために、若手の警察官や隊員を派遣する必要があった。大人に対して不信感を持つ彼らが中年であるベテラン公務員に話をしたがらなかったためである。  蛍汰が十歳の頃、国は大きな試策を開始した。十代の少年少女を教育し、放課後テロサークルと化しているグループに近づかせて状況をより深く探ろうというものだった。既にSDAには基礎教練学校という十五歳から十八歳の若者を対象とした隊員教育施設があったため、その下の教育として「初等、中等教育課程」が企画された。全寮制、わずかながら給料も出るということだった。  家庭環境がまずく、家を出たかった蛍汰はそれに応募し、何とか採用された。  十五歳の頃に潜入任務を開始し、それから十八まで三年間務めた。十八のときに大きなテロに巻き込まれ、顔も割れて現場を離れることになった。しかし潜入任務の実績を買われ、若手育成に入るように指示を受けて、指導教官養成課程の受講と研修を経て、ようやく今年、教官として第一歩を踏み出したところだ。  二年前のテロで顔が何度もネットや各種メディアで流れたため、今は広報の手伝いもしている。  どちらも慣れない業務でヘマばかりしている気がするが、クビにされない間は精一杯頑張ろうと蛍汰は思っている。何しろ小さな沙羅がいて、そして妻の智実のお腹には二人目がいるのだから。
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