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「動かないで」
途中の薬局で購入した冷却パックを青や黒に変色した肌の上に貼りつけていく。よくわからなくてクーリング目的の湿布と、鎮痛作用の湿布両方を購入していたから、傷の状態を見ながら交互に貼りつけた。エアコンをつけていない室内は蒸し暑かったが、湿布が冷えるのだろう。魚の腹のように白い肩が、湿布を張るたびにぴくん、ぴくん、と跳ねた。震える輪郭からそっと目を逸らすと、脱ぎ落したブラウスを拾って手渡す。
「……ごめん」
もう謝罪は聞き飽きた。だけど、ブラウスのボタンを閉め終わった風佳は、謝罪に続く言葉を口にするつもりはないようだった。蒸し暑い室内に沈殿する沈黙は一種の苦行だ。早々に白旗を上げた阿貴は、テラスに面する窓を全開にすべく歩を進める。ガラス窓が開いた隙間から、初夏の夜特有の瑞々しい風が吹き込む。キッチンへ移動し、冷蔵庫を開けると、なぜか林檎しか入っていなかった。
水道水で洗った林檎を両手に持ち、うち一つを風佳に手渡す。向かいのソファに腰を据え、瑞々しい赤い球体に齧りついた。程よくバランスのとれた酸味と甘味が口内に染み渡る。風佳は林檎に齧りつくことなく、赤い果実をよすがとするように、両手で大事に抱いていた。
「ここ、よく来るの?」
阿貴が林檎を丸々一個食べ終わった頃合に、風佳が口を開いた。元来の彼女は、空気を読まなければ息の仕方を忘れるような人間なので、降り積もる沈黙に耐えられなかったのだろう。
「二年前の誕生日に、父親にねだってもらった。それからはたまに来る」
「そう。誕生日のプレゼントに別荘なんて、さすが阿貴だね」
ふふ、と上がる笑声は白々しい。食べるところがなくなった林檎の芯をゴミ箱に捨てると、ソファには戻らずにテラスへと向かった。
露を孕んだようなさやかな風が、ベリーショートの髪の間をすり抜けていく。テラスから望む庭は、野趣に富んでいるというより、ただただ無精にしたような野性味に溢れていた。奔放に生えた夏草が夜風に揺れている。闇の片隅にじっと目を凝らすと、青白い花が許しを請うようにして下を向いていた。
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