いとしのカンパニュラ

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「風鈴草が咲いているわね」  風佳もテラスに出ることにしたらしい。胡坐をかく阿貴の隣に膝を抱えて座る風佳は、寄る辺のない小さな子どものようだ。 「あんたって花に詳しかったっけ?」 「ううん。でもほら、ギリシャ神話にはまっていた時期があったから。高校の時、阿貴と一緒に図書委員をやったでしょう? あの時はギリシャ神話の本ばかりを借りて読んでたなあ」 「ああ。読んでたね。なにが面白いのかわかんなかったけど」 「高校の三年間、立候補をしてまで図書委員になったのに、阿貴は全然本が好きじゃなかったよね。私にはそっちの方が不思議だよ」  柔らかな視線を受けて、もうずいぶんと板についた曖昧な笑みを浮かべた。「楽だったからだよ、図書委員」と返したが、もちろん真実ではない。馬鹿な風佳は阿貴の嘘に気づかない。憎らしいほどに。もう、ずっと。 「で、そのギリシャ神話とやらに風鈴草の話があんの?」 「うん。風鈴草は別名をカンパニュラっていうんだけど、カンパニュールという名前の下級女神からとっているの。カンパニュールはオリンポスの果樹園の守り人でね、この果樹園には黄金の林檎が大事に保管されているの」 「黄金の林檎?」 「北欧神話によく出てくるけど、今風に言うと不老不死の妙薬ってことになるのかな。だから、黄金の林檎は盗難に遭うパターンが多いんだけど、カンパニュールが守る果樹園でも泥棒に盗まれるのよ。カンパニュールは慌てて銀の鈴を鳴らすのだけど、助けが来る前に泥棒に殺されちゃうの」  最後の音は、清涼を孕んだ夜風に掻き消されるようにして落ちた。自らを抱くように、両手でぎゅっと腕を握り締めた風佳は、努めて明るい声を上げる。 「それで、カンパニュールの死を悼んだ女神フローラが、鐘のかたちをしたカンパニュラの花に彼女を変えたのですって」  「ふぅん」と気のない相槌を打つ阿貴に、風佳は微苦笑した。決して愛想がいいとは言えない阿貴だけど、彼女のわかりにくい優しさは身に染みて知っている。 「なんだか、切ないけど綺麗な話よね。死んでなお、花となって女神の傍を離れないなんて」  唐突に立ち上がった阿貴が裸足で庭に降りる。足裏に、昼間の熱気を吸収した土の感触が触れる。野性味溢れる庭だが、一応は人が通れるくらいには管理しているのだ。名残の熱を宿す土を踏み締め、月明かりを手探りに、宵闇の片隅まで二本の足で進む。項垂れるようにして花開く風鈴草を一輪手折ると、それを片手にテラスへと戻った。
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