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「暴力を振るう男なんてろくでもないってわかっているのに……それでも離れられないの。ぐずぐずしているうちに二年も経っちゃった。二年も経ったのに……あと何回殴られたら、彼のことを嫌いになれるのかな」
救いようもない馬鹿だな。口の端で笑う。短くなった煙草を床に擦りつけて消し、十秒考えた。だが、世の中には考えても出ない答えというものがある。そんな時は本能に従って行動した方がすっきりするのだ。
空いた左手で震える肩を抱き寄せた阿貴は、右手でとめどなく溢れる涙を拭ってやった。服越しに触れ合う体温に安心したのか、嗚咽がよりひどくなる。
「ほんと、どうしようもないね、私」
阿貴は答えなかった。頬を伝う涙が顎から滴る前に、掌で拭う。もう少し強く抱き締めたかったが、二人の間に挟まれて潰れないようにと、風佳が大事そうに風鈴草を抱くので、それ以上は近づけなかった。数分前の自分の行動を呪いたくなる。
阿貴の体温に安心したのか、泣きつかれたのか、その両方なのか。ぐったりとした風佳は、やがて阿貴の胸の中で健やかな寝息を立て始めた。この体勢で朝まで寝かせるわけにはいかない。かといって、ゲストルームまで彼女を抱えて運ぶ腕力もない自分に、阿貴は舌打ちをしたい気分になった。
実際に舌打ちをすると、風佳を揺り起こさないように身体を捻って、尻ポケットに手を回す。箱からマルメンを一本抜きとると、真夏の入道雲みたいに白い煙を夜の隙間にそっと吹き込んだ。信頼しきった風佳の寝息に促されるようにして、先程までの会話が蘇る。
――――切ないけど綺麗な話よね。死んでなお、花となって女神の傍を離れないなんて。
阿貴はそう思わない。綺麗だなんてとんでもない。例え死んでいても、自分の傍にいるなら構わないなんて。女神の傲慢にしか聞こえない。
「……なにが誠実な愛だよ」
ふう、と白煙がくゆる。煙草を持たない右手で、風佳の頭をゆるゆると撫でた。細く柔らかな髪が、まるで阿貴から逃げるようにして指先をすり抜けていく。笑うしかない。
「どうしようもないのは私の方だ」
そうとわかっていながら、胸の内で渦巻く無様な感情を、阿貴はこれからも持て余していくのだろう。誰よりも大切にしてきた宝物を古い宝箱に鍵をかけて仕舞い、今後こそ本気で逃げ切るつもりだったのに。求められてしまえば、どんな頑なな決意も簡単に砂塵へと帰してしまう。求める声に期待をすることなんて、とうの昔に諦めている。それでも、人は代償のない愛をどこまで貫くことができるのだろう。
あなたの幸せを願う片側で、自らの欲望を満たしたいと願うのは罪なのか。
せいぜい綺麗に笑っていようと思う。風鈴草の花言葉が誠実な愛だと信じている君のために。
唇を離れた白煙は、永遠に解読できない暗号のように棚引いて、かくも呆気なく夜の闇に塗り潰されてしまった。
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