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そんなわけで、なんだか事が有耶無耶になり、俺も廉もその場を立ち去ろうとした時、それまで黙っていた淵田小葵が急に口を開いたのだった。
「あの、ありがとう」
初めて声を聞いた、と思った。
抑揚のない。けど、透き通っていて、まっすぐ耳に届く声だった。
そして、あぁ別にいいよ、と気軽に返そうとした時、ところで――と例の疑問をぶつけられたのだった。
私に似た犬でも飼っているの?
何度も頭のなかで繰り返すけど、なんの脈絡もない、なんの意図も分からないその言葉に、より一層頭を悩ませるだけだった。
犬? 犬ってなんだ? いや、飼ってないけど。だからどうしたというのだ。ていうか俺、猫派だし――と頭のなかでどうでもいい方向に話が逸れていき、人気のない住宅路の角を曲がったところで、俺は件の淵田小葵と相対することになる。
思わず声が出た。いきなり彼女の顔が目の前に現れたのだから。まるで俺のことを待ち伏せしているかのように突っ立っていた。
心臓が、どくんどくんと早鐘を打つ。訳もわからず、こちらをじいっと見つめてくる彼女の真剣な顔から目を離せないでいると、視界に妙なものが入ってきた。
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