第六部/担当編集×小説家⑮<1>

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◇ ◇ ◇ 「美味かったな、サザエの壺焼き!」  ビールの後は日本酒を楽しみ、二時間程を店で過ごして巧と共に会計を済ませた。  巧が言った通り、看板メニューとされていたサザエの壺焼きは旨味が凝縮されて歯応えも良く、磯の香りが鼻をくすぐりとても味が良い一品だった。他に頼んだ料理もハズレがなく、ここなら二回目以降のリピートもアリだなと店の名前を頭に入れた。 「ところで、話が戻るんだけどさ」  人の流れに従って歩きながら巧が神妙な面持ちでこちらを見遣る。 「お前、イツキちゃんとは結婚とか考えてんの?」 「は?」  戻された話がその話題とは思わず、つい気の抜けた声を出してしまった。 「『は?』じゃねぇよ。大事なことだろ? 若いとは言え、オレたちだってアラサーだしさ。そこのとこ、考えてんのか?」 「考えっ、……てないわけでは」  言葉遣いは先程と同じく軟派でくだけたものであるのに、巧の言葉がまるで拳のように胸を叩いて喉に声を詰まらせた。 「まっ、結局名前以外は何も教えてくれなかったけどよ、歳だって大して変わらないんだろ? 周りでもぼちぼち増えてきたしさ」 「俺のことより、お前はどうなんだよ」 「オレ? 今はいねぇな。カワイイ娘は、いつでも募集中ではあるけど」 「カワイイ娘……」 「何でもいいけど、相手のことが本当に好きなら今度こそはフラれないように大事にしろよ」  バシッ、と巧の手に若干強めに肩を叩かれた。 「真琴がフリーになる時って、決まってフラれるのはお前だもんな」 「……」  中学、高校、大学と遠くに追いやったそれぞれの記憶を一時的に引き寄せ、その幾つもの節目を一つ一つなぞっていった。  恋愛事の別れは、必ず俺からではなく相手から。  理由は自分でも自覚している。相手の瞳を、心を、姿を、俺が真っ直ぐに見つめようとしなかったからだ。  恋愛事に本気になれなかったのは何故か。心の中に、ずっと相楽さんが居たからだ。  通学時に電車の中で毎日のように見掛けていた横顔。何も言えないまま、会えなくなってしまった背中。悔やんでも悔やみ切れない想いはずっと当時の相楽さんの姿を見つめていて、俺を「好き」だと言ってくれた多くの相手に正面から向き合う気持ちが湧かなかった。  そのことに気が付いたのは、相楽さんと再会した後である。 「――大事に、している」 「ん?」 「今付き合っている人のことは、誰よりも大事にしている。……自分のこと以上に、ずっと」 「……へえ」  俺を覗き込む巧の口角がニヤリと持ち上がり、唇が弧をつくった。  茶化されるかとも思ったが、この件についてはそれ以上の軽口は自粛することを選んだようで、居心地の良い空気が互いの間に流れていった。 「じゃ、オレこっちだから」  改札を通り手を挙げた巧は、『また近々飲みに行こうぜ』と振り返りながらホームへ続く階段を上っていった。  最寄り駅へ向かう電車に揺られながら、ポケットから端末を取り出す。  表示されて名前を見つめると胸の奥から愛おしさが込み上げてき、電車を降り、駅を出てから俺は電話の呼出音を鳴らした。
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