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◇ ◇ ◇
打ち合わせ時に使用する目的として預かっているカードキーをセキュリティにかざし、マンションのエントランスを抜けて中へ入る。
エレベーターを降りて部屋の前まで来ると、いつものようにインターフォンを押して相楽さんが出てくるのをしばらく待った。再度押して様子を伺ってみたが、やはり玄関が開く気配は全くなく廊下を歩く足音すらドア越しにも聞こえてこない。
(何だ? いったいどうしたって言うんだ……)
単純に留守にしているだけかもしれない。
いくら親しい仲とはいえ、全ての予定を互いに教え合う必要はどこにもない。俺が知らないだけで相楽さんには相楽さんの都合があるのだから、それならそれで何も問題ないことではあるが。
「……」
鞄から取り出したキーケースに目を落とし、どうするべきか改めて考えた。
自分だって同じことを言っていた。
これを持って、いつでも部屋に来て構わないと。
会いたいと思った時に会いたいからという理由で使ってくれたら、それで良い。近くまで来たからと言って、何も用事がなくとも遠慮することなく使ってくれることだって嬉しいのであると。
「使わせていただきますね、相楽さん」
開いたケースから合鍵を手にし、鍵穴に差し込んで斜めに回した。
解錠した音を確かに聞いてからドアを開けると、部屋の中は明かりがついておらず物音すら伝わっては来なかった。
「相楽さん……? 俺です、佐谷ですが」
靴を脱いで中に入ると、廊下を抜けてリビングへ続くトビラを開いた。
しんとして誰もいない部屋の中。キッチンにもパソコンデスクにも、やはり相楽さんの姿はない。食事をした形跡はきちんとあった。洗い終えた食器が水切りカゴに入っていて、上から布巾がかけられている。
しかしそれはもうすっかり乾いていて、洗い物をしてから随分と時間が経っていることは容易に推測できることだった。
「残る可能性とすれば、あとは―――」
リビングから続く寝室のトビラへと目を遣った。
来る途中に脱衣所にもなっている洗面台も覗いてみたが、案の定そこにも相楽さんの姿はなく、まだ確認していない場所はこの寝室だけとなっていた。
(ここにも姿がなければ、ただの俺の思い過ごしということだ)
電話に出られない事情でもあるのだろう。
もしかすると、ご家族に関わることがあったのかもしれない。
あまり悪い方には考えたくないが、外からの連絡に構っていられる時間が取れないような何か。
そうであれば、もう少し時間が経って落ち着いた頃に必ず相楽さんから連絡が来る筈だ。だからきっと、俺が過剰に気にする必要はどこにもない。
そう思い、寝室の中へと足を伸ばそうとした時だった。
「…………ケホッ……ケホッ」
「……ッ!」
寝室とを隔てるトビラの向こうで、微かではあるが咳き込む声が聞こえた。
ハッとして振り返り、まさかと思いながらノブを回す。
「―――相楽さん?」
「……ケホッ、……ケホッ、ぅっ」
「相楽さん!」
ベッドに横になり、枕に顔を埋めている相楽さんを見つけた。
肩まで肌掛けをしっかり被り体を丸くして横を向いている様子は、単純に眠っている時のそれとは異なり、咳き込む状態からも具合が悪いことは明白な事実だった。
「相楽さん。分かりますか、相楽さん?」
「……ん……、あれ、佐谷さん……?」
呼びかけに応じて目を開けると、相楽さんはぼんやりとした様子で俺を見て首を傾げた。
「どうして、佐谷さんがここに?」
「何度か連絡しても一向に出なかったので、気になって様子を見に来たんです。それよりどうしました? 体が怠いですか?」
「あ……えっと、すみません……。どうやらエアコンで寝冷えをしてしまったみたいで、朝からずっとこんな調子なんです。恥ずかしいですね、夏に風邪を引くなんて」
電話に出られなかったことを詫びながら、相楽さんは眉を寄せて困ったように笑って見せた。それが逆に気を遣わせているみたいで申し訳なく、聞いたそばから俄に胸が痛む。
「笑っている場合ですか、こんな時に……。薬は飲みましたか? 食事は、あと水分も」
「薬は、朝食を摂った時に一緒に。それからはずっと横になっているので、お昼の分は飲んでいなくて。水分は、手洗いに立った時に少し」
「なるほど、分かりました。ひとまず熱を測って食事を摂りましょう。寒くないですか? あと、頭痛がひどいようであれば額を冷やしますが」
「頭痛は今はないので大丈夫です。寒くも感じないので、掛けるものもこのままで……、あの、佐谷さん」
「何ですか?」
伸びてきた手が俺の服を掴み、ひどく申し訳なさそうな顔で相楽さんが声を落とした。
「すみません……迷惑を、かけてしまって……」
「迷惑?」
「仕事の電話も出られなくて、それによって原稿も……締め切りにはちゃんと間に合わせますから、少しだけ、待っていただくことができれば」
「……相楽さん」
「無視をしていたわけではないんです。具合が悪いとは言え、きちんと連絡をするべきでした。ご迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ありません……」
謝罪を口にする相楽さんの言葉は、作家としての責任から来る言葉だった。
しかしそれと同時に、仕事以上のものがここにはあることをきちんと理解してもらいたくて、俺はわざと険しい顔をしながら相楽さんの手を取る。
「そのように思われるのであれば、次からはきちんと一言連絡をください」
「……分かりました」
「でも、それよりも前に、今日俺がここへ来たのは、担当として相楽先生が気になったということではなく、俺個人として相楽さんのことが心配になってこうして訪ねて来たんです」
「さ、佐谷さん……」
「今はもう勤務時間外です。言っている意味が分かりますか? 相楽さんは、『相楽先生』の顔をしなくても良いんですよ」
「……ッ!」
表情が一瞬にして仕事用のそれからプライベートのものへと切り替わったのが見て取れた。すると、相楽さんの瞳はみるみる内に赤く潤んできて、重ねた手を待ち侘びたように両手で包んで撫でてきた。
「ごめんなさい、佐谷さん」
「いいえ。心細かったですよね、相楽さん」
「いえ……そんなことはっ……」
「もう、大丈夫ですから。先日相楽さんがくれた合鍵を使わせていただきました。早速活用することができたので、良かったです」
「あれは、佐谷さんに持っていてもらえれば、いつか何かの役に立てるのではないかと思ったからで」
「はい。とても役に立ちました。相楽さんがくれたお陰です……受け取ることができて、本当に良かったです」
「……佐谷さん」
髪を撫でていた至近距離で、相楽さんがじっとこちらを見上げてきた。
いつもならそのまま口付ける距離間だが、今はきちんと相楽さんの話を聞くことを優先させる。
「ありがとうございます。僕の為に、わざわざ」
「いいえ。困っている時に助けに来るのは恋人として当然のことです。来るのが遅くなってしまって、すみません」
「そんなことは……、そんなことは、ないです」
涙の滲んだ目尻に唇を落とせば、相楽さんはそっと瞼を閉じて心地良さそうに頬を緩ませた。
作家の顔と個人の顔。どちらも同じ相楽さんなのに、立場が違えば同じ顔でも全く違う印象へと変わってしまう。
どちらの相楽さんであっても、俺にとっては大切な人であることに変わりはない。相楽さんの言うように例えどんなに迷惑をかけられたとしても、その相手として俺が選ばれるのであれば、とても光栄なことだ。
「では、もう少しここで待っていてください。何か消化に良いものを作ってきます。キッチンをお借りしますね」
「佐谷さん、あの」
繋いでいた手を離し、肌掛けの中に入れて立ち上がろうとした時だった。
呼びかけられた相楽さんの声に応えて、一旦その場で動きを止める。
「ん? どうしました?」
「あっ……、……いえ、何でもないです……」
「そうですか? では、何かあればここから呼んでください。それじゃあ、少し離れます」
「はい、ありがとうございます」
相楽さんが言いかけた言葉は何だったのだろうか。
その正体はやはり気になるものではあるものの、ここで尋問しても仕方がないことなので、額に一つキスを落としてからキッチンを借りる為に相楽さんに断って寝室を後にした。
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