第五部/担当編集×小説家⑬<2>

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人の部屋の冷蔵庫を開けるというのは、何とも気が引けて緊張してしまう行為の一つだ。 冷蔵庫の中身はその人の生活が如実に出るものの代表格と言われており、いくら相手が相楽さんと言えど、本人がいないところで中を見るのは今回が特別なことであると自分によく言い聞かせる。 (いや、しかし、料理をする上では見ないわけにはいかないので開けさせていただきますね、相楽さん!) 意を決して冷蔵庫のトビラを開け、中にある食材の有無を確認した。 牛乳、卵、調味料に幾つかの野菜、余計なものはほとんど入っておらず、どちらかと言えば保存されている食材は少なめと言ったところだ。 (ある程度のものはあるけれど、冷凍庫はどうだろう……) 下段にある引き出しタイプの冷凍庫を開けると、袋に入った肉類が端にまとめられていた。冷凍食品はほとんどない。レトルト品やコンビニの弁当類といった出来合いのものがあまり好きではないと話していたことは本当だったようだ。 (ご飯はコレを使えば良いか。でも、米を使ってできるものと云えば、例えば……) 確認した食材を頭の中で繋ぎ合わせ、思いつく料理と結び付けていく。 自分が風邪を引いた時に、何を作ってもらうと嬉しいと思うだろう。 消化に良く、胃に負担の少ないもの。できれば箸ではなくスプーンで食べられるもので、冷たいものよりかは温かいものの方が体には良い筈――― 「あっ、そうだ……」 冷蔵庫のトビラを再び開け、使える食材に間違いがないかを確かめた。 冷凍庫にはラップで小分けされたチーズが残っていた。 ベーコンは朝食に使っているものだろうか。これだけあれば十分足りる。 調味料もひと通り揃っているから、味付けに不自由する心配もない。 「よし、早速作ってみるか」 詳しいレシピはよく分からなかったので、有名なレシピサイトの人気ページを検索し、端末に表示させたものを傍らに置いてその都度カンニングすることにした。 これなら恐らく、相楽さんも抵抗なく食べてくれる筈。まだ一度も作ったことがないメニューだが、入れるものさえ間違わなければそんなに難しいものではきっとない。 凍ったご飯はレンジで二分解凍させ、使う食材は包丁を使って食べやすい大きさにカットした。鍋を火にかけ、少量のバターを溶かしてベーコンと野菜をじっくり炒める。ベーコンからしっかり味が出てきたところで鍋に牛乳とチーズを加え、塩コショウとコンソメを使って全体の味を整えた。 溶けたチーズが牛乳にとろみを加えた頃、一度味つけを確認し、少しだけ塩を追加した。表面が沸々と泡を立て、次の泡が立っては弾けて消える。 解凍したご飯を加えて塊が残らないように潰しながら混ぜてやると、今日のメニューの完成形が見えてきてほっと安心感が湧き上がった。 (相楽さんがこれで喜んでくれれば良いけれど……) 煮込むご飯が鍋底にくっつかないように木べらで混ぜ、味の加減を確かめてから適度な頃合いで火を止めた。 皿に盛り付けたものを持って、グラスに注いだ麦茶と共に寝室へと戻る。 サイドテーブルに置かれたテーブルランプを今だけ足元に下ろし、空いた場所へ皿を置いて、眠っている相楽さんの肩を軽く揺らした。 「相楽さん。お待たせしました、できましたよ」 「ん……」 目を開けた相楽さんが俺の姿に気付き、ゆっくりと体を起こして額に手を当てた。 「どうしました? やっぱり頭痛がしますか?」 「あ、いえ、違うんです。……すみません、佐谷さんが食事を作ってくれているのに、その間に眠ってしまって」 「いいんですよ、そんなの。眠った方が早く回復しますから」 「……あの、それ」 「ああ、そうだ。相楽さんにはこれが良いかなと思って作ってみたんです。ちゃんと味見はしたので不味くはないと思いますが、食べられるようであれば全部食べてください。―――どうぞ、ミルクリゾットです」 「え……っ」 スプーンと共にリゾットを盛った皿を差し出すと、相楽さんは目を瞠って声を喉の奥に飲み込んだ。 「ど、どうして、佐谷さんがそれを……」 「ほら、以前に俺が風邪で寝込んだ時に作ってくれたじゃないですか。相楽さんにとっては具合が悪い時に食べるのがこのミルクリゾットなのではと思い出して、丁度食材が揃っていたので作ってみたんです」 「……ッ」 「ただ、はじめて作ったのでこれで良いのか分かりませんが。味見は問題なかったので冷めない内に、さあ、どうぞ」 あの時に食べたミルクリゾットがとても美味しかった。 相楽さんが俺の為に作ってくれた最初の料理。あの頃はまだ相楽さんとは仕事上での付き合いだけで、具合が悪い俺を気遣ってくれたことも、タクシーで家まで連れて帰ってくれたことも、着替えを手伝い面倒を見てくれたことも、それら全てが夢のようであり言葉にならないくらい嬉しかった。 そしてその時に作ってくれたのが、これと同じミルクリゾットだった。 今回とは味付けが異なり前回は鶏ガラとツナ缶を使用したものではあったけれど、その優しい味と温かな湯気が体だけでなく心も存分に満たしてくれたことは、何度思い出しても口元が緩む出来事だ。 そういえばあの時、『子どもの頃に同じものをよく母が作ってくれた』と言っていた気がしたけれど、もしこれが相楽さんの心に届く料理になっていれば他に言うことはない――― 「……」 「相楽さん? どうかしましたか?」 皿を出しているのにも拘らず、受け取ろうとしない相楽さんに首を傾げた。 もしかして食べたくなかっただろうか。これではなくもっと別のものが良かったとか、勝手に色々と食材を使い過ぎたとか、何か思うところがあるのではないか。 「あ、あの、すみません、俺。てっきり相楽さんの好きなものなのかと思って作ってしまったんですけど、これではなかったですか?」 「……」 「食べたくないなら無理しなくて良いですから。逆に、俺にできるものなら相楽さんの食べたいものを作り直してきますから」 「……が……です」 「え?」 「違うん、です。食べたくないとか、無理をしているとか、そんなことを思っているのでは、……違うんです」 「さ、相楽さん?」 皿を再びサイドテーブルの上へ戻し、声がよく聞こえるようにベッドの縁に移動して腰を下ろした。 俯いたままの相楽さんからは表情を見ることができない。 泣いているのか、怒っているのかは声のトーンから推測するより他はない。 「違うって、何が違うんですか?」 なるべく優しく話しかけるように、努めてゆっくり口を動かして相楽さんへその先を促した。 「すみません、相楽さんの言いたいことが俺にはよく分からなくて。ゆっくりでも良いので教えてもらえると有り難いです」 「……、……僕にとってミルクリゾットは、母の味なんです」 「お母さんの?」 「子どもの頃、僕が風邪を引いて熱を出す度に母は食事にミルクリゾットを作ってくれて、いつも僕の部屋まで持ってきてくれました。食べさせて欲しいと甘える僕に、文句も言わず最後の一口までスプーンで掬ってくれて」 「……相楽さん」 「思い出したんです、さっき。でも、佐谷さんにそれを作って欲しいとお願いすることができなくて、『何でもない』って言ってしまったんです。だからまさか、これがここに出てくるとは思っていなくて」 肌掛けを掴む相楽さんの手が拳を作って強く握り締められた。 「すみません。本当に最近、男の癖に佐谷さんの前で泣いてばかりですね」 相楽さんが顔を伏せたままこちらを見ないのは、溢れた涙を俺に見せず、必死に堪えようとしている為だ。 男の癖に泣いてばかり。そんな言い方をする相楽さんがとてもいじらしく小さく見えて、手を伸ばしたくなる衝動を抑える要素をどこにも見つけることができなかった。 「相楽さん」 力の入っている肩を抱き寄せ、胸に顔が埋まるようにして彼の頭を包み込んだ。 「人は感動した時は泣いて良い生き物なんですよ」 「佐谷さ……」 「言いましたよね、俺。泣きたくなった時は、遠慮なく俺の元で泣いてくださいって。一度言った約束はちゃんと守りますから、性別なんて関係なく泣きたい時には泣いても良いんですよ」 「……ぅっ」 喜怒哀楽をあまり表に出さなかった相楽さんが、泣いたり笑ったり怒ったり喜んだりする様を見られるのは、とても幸せなことだ。 例えそれらの全てに自分が関わっていなかったとしても、彼が誰かと関わりをもち、その結果で抱いた感情の答えを俺に一つ一つ教えてくれるのであれば、それもとても嬉しいこと。 相楽さんにとっての母親との思い出は、俺が想像しているよりも遥かに強く深いものが眠っているのだろう。それらの中には幸せな記憶もあれば、悲しい記憶もきっとある筈。その全てを今後相楽さんが話してくれるのかは今はまだ分からないが、話してくれることについては他のどんな用事でも手を止めて、正面から向き合い耳を傾けたいと強く思う。 まだまだ知らない相楽さんの話を、ゆっくり聴くことができる時間を沢山持ちたい。 これまで沢山頼ってしまった分、今度は俺が相楽さんを支えられる存在になる為に。 「佐谷さん……、僕は」 涙の止まった相楽さんが、落ち着いた声で笑みを浮かべて口を開いた。 「佐谷さんを好きになって、本当に良かった」 「相楽さん……」 「ミルクリゾット、頂いても良いですか? 泣いたらお腹が空いてしまって、せっかく佐谷さんが作ってくれたので早く食べたいです」 「それは、もちろん。ヤケドしないように気を付けてください」 「はい。いただきます、佐谷さん」 皿を取って改めて相楽さんへ手渡すと、スプーンで掬ったリゾットを口に入れてゆっくりとその味を確かめた。どうだろうと見守る俺に「美味しい」と頬を緩ませる笑顔がほっと緊張を消してくれる。 『佐谷さんの分は?』と聞かれたが、ここでようやく自分の分を考えず相楽さんの分しか作っていなかったことに気が付いて、そのまま誤魔化さずに白状すると同時に思い出したように腹の虫が鳴った。『冷蔵庫の中身は何でも好きに使ってください』と言う相楽さんの言葉に甘え、ご飯と卵を拝借することにした。これにあとはベーコンの残りと刻んだ葱を炒めれば、簡単にできる炒飯が完成する。 テーブルで一人で食べるのもおかしいので、少し行儀は悪くなるが、出来たばかりの炒飯を持って相楽さんの待つ寝室へと戻ってきた。『美味しそうですね』と褒めてくれる言葉に気を良くしつつ、相楽さんの隣に座って遅めの夕食を一緒に済ませた。 その日は相楽さんの様子を確認できれば、終電に乗って帰るつもりでここへ来ていた。しかし、その旨を伝えるとひどく残念そうに下を向いてしまったので、相楽さんのそんな反応を見て『帰る』とは到底言えるわけもなく、翌朝少し早めに出ることの了承を得た上で、その日はそのまま部屋に泊まることになった。 編集部へはもちろん、絶対にバレてはいけないことだと肝に銘じて。
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