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◇ ◇ ◇
「それじゃあ相楽さん、俺そろそろ行きますね」
家を出るいつもの頃合いよりも一時間早い時間帯。身支度を整えてコーヒーを飲み終わると、洗ったカップを水切りカゴに入れてから相楽さんへ振り向いた。
昨日あった微熱も一晩経てば平熱へと下がっていて、喉の痛みも幾分マシになったらしい。せめて朝は一緒に過ごしたいと俺が起きたタイミングで相楽さんもベッドから抜け出して、併せて淹れたカフェオレを向かいの席に座って飲んでいた。
「忘れ物はありませんか?」
「大丈夫です。と言って何か忘れていたら、次に来るまで預かっていてもらえますか?」
「分かりました。今日は朝からどんなお仕事があるんですか?」
「今日は校閲部から戻ってくる原稿の確認です。午後からは別の先生との打ち合わせがあって、書店などへの対応と請求書の作成など。突発で仕事が入りさえしなければですが」
「忙しいんですね、佐谷さん」
「忙しいですが、これも全て自分の為ですから」
「自分の為?」
「今の内にできる限りの仕事をやっておきたいんです。そうすれば、経験も視野もどんどん増やすことができますし、それが結果的に編集者としてのスキルを上げる近道になると思うんです」
「……佐谷さん」
「俺もまだまだ半人前ですからね。一日でも早く宮部さんに一人前だと認めてもらわなければいけませんし。まあ、あまり残業はしたくないですけど」
相楽さんの前で『半人前』だと言うのは、もしかすると間違った発言なのかもしれない。
一流の作家に着いている担当が『半人前』だなんて、聞く相手によっては怒りを顕にして怒鳴りつけられてもおかしくないことだろう。
それでもやはり俺は、自分のことを一人前だと言える気概がまだ備わっていない。何をもって『一人前』だと評するのかは個人によって異なることだと思うが、まだまだ俺には学び足りないこと、知り得ていないこと、経験していない物や事象が沢山存在する。
どれだけそれらを手にすれば良いのかという基準は定まっていないが、それでも更に上を目指す為には無くしてはいけない探求心だと思っている。
「なるべく相楽さんに心配をかけないようにしようとは思っています。俺がまた体調を崩したら、それこそ相楽さんや他の先生へのご迷惑になりますからね」
「僕は迷惑なら幾らでもかけられて構いませんが、佐谷さんがそう言うなら」
「って、すみません。つい朝から仕事の話をこんなに長く……、ダメですね。せっかく相楽さんが居るのに、普段と変わらない話をしてしまうなんて」
「そんなことはないですよ」
カップを掴んでいた相楽さんがそこから手を離し、俺の手を取ってから眼鏡の奥にある瞳をそっと細めた。
「佐谷さんのそういう真面目なところに、僕は惹かれたんです」
「……相楽さん」
「真面目で、優しくて、でも少し意地悪で……佐谷さんだから、僕は楽しんで仕事ができているんだと思います」
引き寄せられた手が相楽さんの頬へ添えられた。
その頬は滑らかでありつつ温かくて、ずっと触れていたい安心感が重なる肌から伝わってくる。
「担当としての佐谷さんも、恋人としての佐谷さんも、僕はどちらの佐谷さんも大好きです」
「……っ!」
「だから、仕事の話もそうじゃない話も、もっと沢山聞かせて欲しいです」
「さ、相楽さん……あの」
何も他意のない自然な口説き文句は、逆に刺激が強過ぎて心臓がドキドキと速くなる。自分の顔が赤くなっているのは鏡を見なくとも分かる。誤魔化すにも誤魔化す術がなくて、目を逸らすことしか思い付かない。
「そういうことは、今言われるとなかなか、理性が……。抱きたくなるじゃないですか」
「えっ! えっ、あの、そ、そういうつもりで言ったわけでは」
「分かっています、……分かっています。流石の俺も分かっているんです。でも、仕事じゃなかったら今頃もう確実に手を出していますよ」
「さ、佐谷さ……っ」
「だから、これは相楽さんからのお詫びということで」
空いている手をテーブルについて体を支え、相楽さんと同じ目の高さまで屈んでから彼の唇に口付けを落とした。
一度離れて、もう一度合わせる。次は触れるだけでなく舌も差し入れ、崩れそうになる頭を支えて指を絡めて手を握った。
「さ、さたにさ……」
「続きはまた、週末に」
濡れた唇を舌先で舐め、溢れた唾液を掬い取る。
「昨日は何もせず寝てしまったので、次に会った時は時間をかけて沢山抱かせてください」
「……は、はい」
「良い子ですね。俺も好きですよ、あなたが思っているよりもずっと」
絡めた指に唇を押し付け、赤くなっている頬へキスをして、前髪から覗く額に口付けを贈った。
時計を見ると予定の時刻よりもう既に十分過ぎていた。『やばい』と心の中で呟きながら、頭の中を切り替えて足元へ置いていた鞄を掴み取る。
「では相楽さん、行ってきます」
玄関まで見送りに来てくれた相楽さんは、まだ余韻が残っているらしく恥ずかしそうに俯いていた。朝から申し訳ないことをしてしまったかと一瞬だけ反省したが、誘ってきたのは相楽さんなのだからあれは至極当然の流れだ。
「今日一日はまたゆっくり休んで、執筆は明日からにしてくださいね」
「わ……、分かりました」
「夜にはまた連絡しますから。あと、もしまた具合が悪くなったらすぐに連絡してください」
「さ、佐谷さんっ」
施錠していた鍵を回し、玄関のドアを開けようとした時だった。
相楽さんに改めて呼び止められ、踵を返して向き直る。
「こ、今週は、いつ来られますか?」
「え? 今週?」
「打ち合わせです……執筆の、僕の、仕事の……」
今週の打ち合わせの連絡。そういえば、まだ行っていなかった。
昨日それも兼ねて連絡をしたのだということを思い出し、それならとばかりに鞄から手帳を取り出す。
「そうですね。では、金曜日の十四時はいかがですか?」
「わ、分かりました。その時間なら大丈夫です」
「ありがとうございます。では、またその日に伺います。あと、読者の方から届いたファンレターを転送したいのですが、日時指定はいかがされますか?」
「それは、今週はずっと部屋に居るのでいつでも大丈夫です」
「分かりました。出社次第、最短で手配しておきます。では、そろそろ……行ってきます、相楽さん」
「はい……。いってらっしゃい、佐谷さん」
ここでもう一度キスをすれば、このまま玄関を開けられなくなってしまう。
後ろ髪を引かれる思いを頭を振って打ち消しながら、相楽さんの見送りに笑みを返し、玄関を閉じて階下へ向かうエレベーターのボタンを押した。
平日の朝。初めて向かう、相楽さんの部屋から会社への道のり。これは下手をすれば味をしめてしまう。そんなことを思いながら、都内へ向かう電車の中へ乗り込んだ。
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