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第五部/担当編集×小説家⑬<1>
庭に咲く花壇の色は、見ているだけで涼しさを演出することができる白や紫、そして水色。初心者でも育てやすいと言われるトレニアやアメリカンブルー、トルコキキョウといった品種はそれぞれが綺麗に花壇に植えられていて、窓から覗く土の景色は子どもの頃とほとんど変わらない。
変わったことと言えば、鉢植えの数が昨年よりまた少し増えたことだろうか。今が見頃の夏の花と併せ、秋に向けて準備しているであろう何も咲いていない鉢がそれぞれ見受けられる。
一番目立つのは、初夏から秋の初めまで繰り返し花を咲かせることができるルリマツリの鉢だ。
青紫と白の小さく可愛らしい花びらが弧を描くように鉢を彩っている。
「父さん、次はあそこに何を植えるの?」
「ああ。パンジーとビオラにしようと思ってね。時期になったらまた苗を買ってくるつもりだ。あとは、花壇には春に向けてスノードロップとチューリップ、アネモネなんてのも良いかとは思っている」
「なんだかすっかりガーデニングが趣味になったみたいだね」
「ははっ、やってみると意外に面白くてな。休みの日にしか触れないが、せっかく庭があるのだから……母さんも喜ぶかと思って」
「うん、……そうだね」
実家の庭には毎年季節に合わせて色とりどりの花が咲いていた。
それらは全て亡くなった母が育てていたもので、時には僕の好みを聞いて、時には父に相談を持ちかけたりして、楽しそうに世話をしていた姿が今でも昨日のことのように思い出せる。一時は庭に花がない時期もあったが、ガーデニングの知識がなかった父がイチから学んで育て始め、今ではこうしてまた花が咲くあの頃と同じ庭へと戻っている。
「それより樹月、疲れただろう。お前の好きなわらび餅を買ってきたから一緒に食べないか?」
「うん。いただくよ、父さん」
世間一般で表されるお盆休みを利用して久しぶりに実家へ帰ってきた。
自分の最寄り駅からここまでは、途中のターミナル駅で乗り換えを挟み一時間と少しかかるくらい。駅へは父が車で迎えに来てくれており、その後部座席には大人しく座った犬の虎太郎が僕の帰省を迎えてくれた。
実家は住宅街に建つ一軒家で、ご近所さんとも仲の良いごくありふれた光景が広がっている。車を降りると早速通りかかった女性が僕の名前を呼んで声をかけてきて、「おかえりなさい」と微笑みながら放送中のドラマや連載の感想などを伝えてくれたりした。
久々に実家へ帰ろうと思ったのは、先日佐谷さんへ母の話をしたからだ。
実家へはあまり帰っていない。自分が口にした言葉が引っかかり、同時に父のことが気になって帰ってきた。
僕なりの親孝行であると、そう言えることができれば幸いだ。
「ところで、どうだ仕事の方は?」
テーブルに出されたわらび餅の前に座ると、傍に居た虎太郎も尻尾を振りながら足元へ近付きその場に伏せた。
父が買ってきてくれたのは、古くから続く老舗菓子屋の夏季限定商品であるわらび餅。希少価値が高い本わらび粉が使われているそれは、一般的な店で買えるものと違って水分が多くとろける柔らかさが特徴的で、添えられているきなこを纏って口に入れれば香ばしさとほんのりとした甘さが舌の上を上品に滑っていく。
「うん、まあいつもと変わらず。今年もまた文学賞の選考委員の話が来ていて」
「そうなのか。去年と同じタイトルの?」
「うん。断る理由がないから受けるには受けるけれど、人の作品をはかるのはなかなか難しくて」
「嫌なら断ればいいんじゃないか?」
「嫌ではないよ。そういう風に思ったことも特にないし。それに、以前に比べて苦手だと感じることも最近は少なくなってきて……」
「それは、樹月にとって何か良い変化でもあったということか?」
「……うん。まあ、それもまた追々。時期が来たら父さんにも話すよ」
「そうか。樹月がそう言うなら、特別に心配することもないだろう」
水出しの冷たい緑茶は父が好きなお茶の淹れ方だ。急須で淹れる方法もあるが、水分を摂る回数が増える夏場にはクールサーバーを使って沢山作ったものを冷蔵庫で冷やして飲んでいる。
新聞記者だったという仕事柄、幅広い人脈を持っている父は、医療関係者から生産者まであらゆる分野の知り合いを多くもつ。水出しに使っている茶葉も、仕事を通じて知り合った農園の生産者から直接購入しているものだ。巷に出回るものより味が濃く、そして深い。香りも非常に立っていて、緑茶本来の旨味や甘味が感じられるとお気に入りの一つとなっているようだ。
「今夜は何か食べたいものはあるか? 久しぶりに一緒に食事をするんだ、樹月の好きなものを用意するよ」
「えっと、そうだな……それなら何か美味しいお刺身を」
トゥルルルル―――
「……!」
父と会話をしている最中、ポケットに入れている端末が電話の着信を知らせた。誰だろうと思い手に取ると、画面の中央に『佐谷真琴』と発信者の名前が表示される。
「ご、ごめん父さん、ちょっと……」
足元に座る虎太郎を踏まないように注意して避け、リビングを出て玄関の外へと移動した。
「もしもし」
「あっ、もしもし相楽さん、俺です。今大丈夫ですか?」
「は、はい。どうしたんですか?」
「いえ、今日実家に帰ると言っていたので無事に着いたかと気になって」
電話の相手は、佐谷さんだった。
いつもと異なり声の周囲がざわざわしている。彼も出先なのだろうか? わざわざ気にして電話をかけてくれるなんて、僕とは違いマメなところには尊敬する。
「ありがとうございます。今、実家で父と話をしていました。佐谷さんはどちらに?」
「俺は家族にパシられて買いも……いえ、家族に頼まれて近くのスーパーまで買い物に。焼肉をするのにタレを買い忘れたとか何とかで」
「そうなんですね。優しいですね、佐谷さん」
「や、優……っ、そんなことはないですよ、全然」
あの佐谷さんが家族にお遣いを頼まれているのだと想像すると、なんだか微笑ましくてつい笑みを洩らしてしまった。佐谷さんには悟られないように笑い声は抑えたが、『実家に帰ってきた一人暮らしの息子を交えて家族で焼肉をする』という大家族らしい光景が一人っ子の僕にはやや眩しく思える。
「あっ、そうだ。そういえば、佐谷さん」
「何ですか?」
ここに来るまでの間、電車に揺られながらふと思い付いたことを口にしてみることにした。
「今日なんとなく気付いたのですが、僕の実家と佐谷さんの実家って、実はそんなに離れていないのではありませんか?」
「えッ」
駅の券売機の頭上に設置されている路線図を思い出し、あたかもそれが目の前にあるように指先で宙をなぞってみた。
「ほら、学生の頃、僕たち同じ電車を利用していたじゃないですか。それなら、意外と近くなんじゃないかと思って」
「相楽さん、最寄りはどこですか?」
「えっと……船端、です。佐谷さんは?」
「……稲手です」
「やっぱり! 駅で言えば六つ離れているだけですね」
「相楽さん」
「はい?」
「俺、すぐ行きます」
「えっ! ちょっと、佐谷さんッ?」
聞き間違いかと思って慌てて呼びかけたが通話は既に切れていて、僕は端末の画面を見つめながら『今から?』と若干信じられない気持ちに包まれた。
佐谷さんの最寄りからここまでは、快速を使えば十分足らずで着いてしまう。今からすぐに駅へ向かえばギリギリ間に合うか、少し待たせてしまうかの微妙なラインというところだ。
「電話はもういいのか、樹月?」
「う、うん」
リビングへ戻ってくると、甘えてきた虎太郎の頭を撫でながら父がこちらへ振り向いた。
幸い、父が出してくれたわらび餅は全部食べ切っていて、残すことがなくて良かったと空いたお皿を見ながら胸を撫で下ろす。
「あの、父さん」
「何だ? どうかしたか?」
「僕ちょっと出掛けてきても良いかな? そんなに遅くならないから、夕食は帰ってきたら一緒に準備しよう」
「そうか。分かった。気を付けて行っておいで」
「うん、ありがとう。……あ、そうだ」
構ってくれる気配を察し、お尻を持ち上げて尻尾を振る虎太郎をちらりと見た。どうしようかと一瞬迷ったが、家族の話を知りたがっていた彼の言葉を思い出し、虎太郎の前へしゃがみ込む。
「虎太郎も僕と一緒に来るかい?」
「ワンッ!」
「父さん、一緒に虎太郎の散歩も済ませてきて良いかな?」
「もちろん、ありがとう。助かるよ、樹月」
「そんな、帰ってきた時くらいは全然。よし、じゃあ行こう虎太郎」
「ワンッ!」
父から預かった虎太郎の散歩セットと貴重品を手にし、最寄り駅を目指してリードを持って玄関を出た。
昼間をとっくに過ぎた夕方と言えど、夏の日差しはこの時間になってもまだ暑く、外へ出たそばから額には汗が滲んで拭った手の甲に滴を付ける。
虎太郎の為にもなるべく日陰になっている場所を選んで歩こう。佐谷さんが乗ったであろう電車の時刻を想像し、改札から出てきた彼を待たせないように虎太郎を連れて駅までの道を急いだ。
『すぐに行きます』という言葉には正直言って驚いた。しかしそれは同時に凄く嬉しいものであって、思わぬ流れで彼に会える、緩む口元で名前を呼ぶのが楽しみでとてもわくわくした。
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