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「相楽さんはいつまで実家に居るんですか?」
「明日までです。あまり長居をするのは落ち着かなくて……佐谷さんは?」
「俺は明後日までです。理玖はもう少し居て欲しいみたいですけど、うちはその、女が強くて」
「女性……お母様のことですか?」
「いえ、母はどちらかといえばおっとりとした性格で全然そんなことはないんです。その代わり、一つ上の姉が……」
「あっ、お姉さん」
先日佐谷さんが理玖くんの話をしてくれた際、実は三人姉弟であること、お姉さんの話はまた改めてしてくれると言っていたことを思い出した。理玖くんに関しては名前の書き方も聞いたし本人にも会った。バスケがとても上手で佐谷さんのこともよく慕っている、砂糖でコーティングされたグミがお気に入りのとても可愛らしい男の子だった。
「そういえば、お姉さんの名前は何ていうんですか?」
「えっ、姉ですか? ……聞きたいですか、それ」
「聞きたいです、ぜひ!」
「えーっと……まあ、相楽さんがそう言うなら……」
何か引っかかるものがあるのかどうかは分からないが、佐谷さんは珍しく歯切れが悪い返事をしながら掌に文字を書いてお姉さんの名前を僕に教えてくれた。
「菜々です。草花などによく使う『菜』に踊り字で『菜々』。理玖は菜々のことを『ナナ姉』って呼ぶのですが……って、別にこれ覚えなくて良いですからね」
「菜々さんですか。可愛い名前ですね。菜々さん、真琴さん、理玖くん。皆さんとても素敵な名前ですね」
「まっ、まこ……相楽さん、それわざとやっていますか? 仮にわざとだったら、ちょっとそれは、今は、何というか」
「え?」
佐谷さんの言っている意図が分からなくて頭の中がぴたりと停止した。しかし、自分の発言を辿ればそれはすぐに答えを導き出すことに成功し、ハッとする僕の目を見ながら佐谷さんは苦笑いを浮かべて返事の代わりとすることにした。
「相楽さんは意外と天然なところがあるので」
「て、天然。そうですか?」
「そうですよ。いつもは意思が固くてしっかりしていますが、時々そうしてボロが出るんですよね」
「そんな、ボロだなんて僕は」
「あっ、ちなみにこれ、貶しているわけじゃないですから。寧ろ、褒めているんです。相楽さんらしくて、俺は好きだなと思っています」
「……っ!」
リードを持つ手に力が入り、前へ踏み出した足が思わず途中で止まってしまった。
前を行く佐谷さんも虎太郎も僕のその様子に気付いたようで、こちらを振り向いて名前を呼ぶと、先に動いた虎太郎がクンクンと鳴き声を上げながら僕の足元へ寄ってくる。
ああ、ダメだと心の中で呟いた。
やっぱり僕は、この人と居ると平静を装って仮面を被り続けることができなくなる。眼鏡だってちゃんとかけている筈なのに。
「あのね、虎太郎」
小さな体に目を細め、言葉が分からぬ愛犬の耳へなら構わないのではないかと想いが溢れた。
「佐谷さんは、僕にとってとても大切な人なんだ」
大切な人であり、大好きな人である僕の佐谷さん。
「父さんにはまだ言えないけれど、虎太郎にだけは、先に佐谷さんを紹介してもいいかな?」
丸い目は真っ直ぐに僕のことを見て、赤い舌を出す口元が『ワンッ!』と一言返事をする。
「虎太郎、あのね。僕、佐谷さんのことが好きなんだ」
「さ、相楽さん……?」
「ワンッ!」
「僕にはまだまだ至らない所が多いけれど、佐谷さんはそんな僕でも好きだと言ってくれた人だから」
虎太郎の頭を撫でながら、視線と心は佐谷さんの元へと向き直る。
「すみません、虎太郎には知っておいてもらおうと思って」
「そ、それは……」
「これで佐谷さんも虎太郎にとっては家族同然です。ぜひこの子のことも、これからうんと仲良くしてあげてください」
「ワンッワンッ!」
二人きりではないから、虎太郎が居るから、実家のある地元の街だからと、彼への気持ちは誰にも悟られぬようにと自分を誤魔化すことにした。
けれど、佐谷さんから語られる一つ一つの言葉が僕にとってはやはりどうしても心地良くて愛おしくて、このまま伝えずにやり過ごすことなんて僕にはとてもできることではないと思ってしまったから。
「―――敵いませんね、相楽さんには……」
「……え? 何ですか、佐谷さん?」
「いえ、何でもないです。リード、俺も持っても良いですか? 今の内に少しでも虎太郎と仲良くなれればと思って」
「はい、どうぞ。この先に虎太郎の好きな公園があるので、このまま一緒に行ってみませんか?」
「良いですね。そこで俺たちも休憩しましょう。暑いですし、何かアイスでも買っていきますか?」
「アイス……って、コンビニの?」
「そうです。久々にアレが食べたくて……、知っていますか? 中に細かい氷が入ったソーダ味のシャーベットの―――」
佐谷さんと僕は虎太郎を連れてそのまま公園へ移動し、途中に通りかかったコンビニで佐谷さんの好きだと言うアイスキャンディーを二つ買った。
袋を開けて中味を取り出すと、表面に薄っすらと霜の付いたソーダ味のシャーベットが姿を現し、佐谷さんはそれをかじって「美味っ!」と喜んで笑っていた。
来た道を戻って駅へ向かい、会いに来てくれた佐谷さんを少し離れた所から見送りする。ここまでずっと虎太郎のリードは佐谷さんに握られていて、虎太郎もまた佐谷さんと一緒に歩いてくれていた。
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