第五部/担当編集×小説家⑬<1>

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塩をかけた目玉焼きを食べて、熱の引いた温めのコーヒーを飲む。 二人で同じ朝食を作り、同じ味付けをして同じものを食べる。それは家族であれば当たり前のことかもしれないが、俺たちの場合は当たり前ではなくとても貴重で特別なこと。住んでいる場所が別々だからという意味ではなく、ここへ来るまでの道のりが非常に長く、距離が近くなった後でも越えなければいけない壁が沢山あったからだ。 それが今ようやくクリアすることができ、その結果として今日という朝を迎えることができている。 これからもきっと新しい壁は数え切れないくらい立ちはだかり、その度に悩んだり迷ったりしながら一つ一つ越えていくのだろう。しかしきっと、それらは全て乗り越えられないものではないと思っている。 二人で力を合わせれば、どんな困難でもきっと道を開くことができるから。 そうしてこれからも相楽さんとこの関係を大切に育んでいきたい。 そう、心から思うから。 「そうだ、佐谷さん」 食器の片付けが終わり改めてコーヒーを淹れる為にケトルでお湯を沸かしていると、濡れた手をタオルで拭いた相楽さんがこちらを見上げて名前を呼んだ。 「渡したいものがあるのですか、取ってきても構いませんか?」 「渡したいもの? それはもちろん構いませんが」 「ありがとうございます。ちょっと待っていてくださいね」 相楽さんが寝室へと向かったので、一旦洗っておいたカップの水気を布巾で拭き取り、コーヒー豆を入れて沸騰したお湯を中へ注いだ。 相楽さんへは砂糖とミルクを、自分には何も入れずにそのままの状態で。 二つを持ってテーブルへ置いた時、丁度良い頃合いで相楽さんが戻ってきた。 「あっ、ありがとうございます。頂きます」 「いえいえ、どうぞ。それより、渡したいものって何ですか?」 「それは、……手を、出してもらえませんか?」 「手? こうですか?」 イスに腰を下ろしてから、言われた通り手を前に出して掌を見せた。 更に加えて『目を閉じて欲しい』と注文を受けたので、そのまま言うことを聞いて瞼を下ろす。 「はい。どうぞ、佐谷さん」 「え? ……あ、あの……」 手の中に包まれたひんやりとした金属の感触に、『まさか』という思いが背中を駆け抜けた。同時に『いや、しかし』と思いながら先に目を開いたが、自分の予想が当たっていなかった時のことを考えると閉じた手を開けるのがひどく躊躇われ、どうすれば良いかと動きが止まる。 しかし相楽さんを見ると、彼は変わらず俺に微笑んでいて、その瞳は嘘を語るようなものでは到底なかった。 その表情を見て覚悟を決めた。閉じた手を開いて、中を確認する。 そこにあった物を見つけた時、俺は瞬きをするのを完全に忘れてそれへ釘付けになってしまった。 「さ……っ、相楽さん、これ……」 「はい、そうです」 手の中に鎮座している、金属でできた小さな品物。 「これは、僕の部屋の合鍵です。昨日、駅前の鍵屋さんにお願いして作っていただきました」 「合鍵って、そんな、まさか」 「まさかではありませんよ。佐谷さんに受け取って欲しくて作ったんです」 「……ッ」 「これで僕も佐谷さんとお揃いです。この鍵を使って、いつでもここへ来てください」 何も言葉が出てこなかった。 迷惑だからとか、不要だからというわけではない。 あまりに信じられないことで、何を言えば良いのか分からないのだ。 御礼だとか、感謝だとか、言わなければいけないことはきっと沢山ある筈。けれど、そのどれもが今の自分の気持ちを表すにはとても足りるものではなくて、口にできる言葉がいくら探しても頭の中から見つけられない。 「あの、佐谷さん?」 何も言わない俺に不安になったのか、相楽さんが怪訝な顔をしてこちらを覗き込んだ。 「すみません、いきなりこんな。……もしかして、迷惑でしたか?」 「え……っ、ぁっ」 迷惑という言葉を聞いて、ハッと我に返った。 違う、そうじゃない。迷惑なんてとんでもない。きちんと伝えなければ、このままでは誤解を招いてしまう。 「ち、違うんです。あの……、すみません。こういう時、何か言わなきゃいけないことは分かっているのですが、何を言えば良いのか分からなくて」 「佐谷さん……」 「嬉しくて、凄く嬉しくて仕方ないのですが、嬉しいって言葉にするだけでは気持ちが全然足りなくて」 相楽さんが先日言っていた。こんなにあなたが好きなのに、好きだという言葉以上に表現できる言葉が見つからない。 その考察は間違いではなく、本当のことだと思った。 これまでとは異なり、二倍、いや三倍以上の強さで心が大きく動かされる。 嬉しいや、悲しいなどといった喜怒哀楽が明確な感情となって表に現れてくるのだ。そしてそれは、今もそう。嬉しさで、幸福感で、胸がいっぱいで息ができない。言葉が見つからなくて相楽さんに何も言えない。 伝えたい想いは、溢れんばかりに沢山詰まっているのに。 「……佐谷さん」 肩にそっと手を添えられ、相楽さんが俺のすぐ傍でもう一度笑って見せた。 「何を言えば良いのか分からないのであれば、こう言ってください」 「相楽さん?」 「ありがとう。そう言ってもらえると、僕はとても嬉しいです」 この人を好きになって本当に良かった、そう改めて思った。 この人を再び見つけることができて、この人に手を伸ばすことができるようになって、今この幸せに、俺は心からの感謝を込めて相楽さんへ伝えたい。 「はい……。ありがとうございます、相楽さん」 「どういたしまして。受け取っていただけて、僕も安心しました」 受け取った部屋の合鍵は鞄に入れたキーケースの中に一緒に付け、それを開けばいつでも目に留めることができるカタチで保管をすることにした。 俺の部屋の合鍵は、相楽さんの部屋の鍵と隣同士になるよう壁際のコルクボードにフックを使って掛けられていた。『僕も佐谷さんのようにキーケースにしようかな』と呟いた相楽さんの声は聞き逃すことはなく、『今度一緒に買いに行きますか?』と誘ってみると『ぜひ!』と嬉しそうに応えて買い物の日取りを早速提案されることとなった。 束の間の夏の休暇が過ぎていく。今年の夏は互いの家族を知り、互いの心を知り、互いの絆をより一層強くする、そんな季節を過ごしていた。
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