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第五部/担当編集×小説家⑬<2>
休暇明けでまず真っ先に行う業務と言えば、大量に溜まったメールのチェックと返信作業が挙げられるだろう。読んでも読んでも終わらない未読の山を一つ一つ開封していっては、急ぎのものかそうでないかのフラグを立てて振り分けていく。
確認をするだけで軽く小一時間。そこから返信を打って必要なデータをファイル保存・プリントアウトでもしようものなら、午前の二時間などあっという間に過ぎてしまって、顔を上げた頃には昼の休憩へと時間はシフトしていく。
「全く仕事が始められない……」
周りが順次席を立って昼食へ出て行く姿を見送る中、ようやくメールの終わりが見えてきたことで画面に向かい大きな溜め息をついた。
これが終わったら俺も一旦休憩に出よう。
久々に食堂へ行って定食でも頼んでみるか。そんなことを考えていると。
「佐谷! 午後からのミーティング、今日はお前が当番だから先に行って準備しておけよ」
「え……ッ! はっ、はい、わ、分かりました」
最悪だ。忘れていた。確かにカレンダーを見ると赤字で丸を付けて『当番』と自分の字で記入がされてあった。
部内で回しているミーティング当番。それに当たっている日は、会議室のセッティングと必要な資料を人数分コピーしてテーブルへ並べておく。
資料は事前に編集長がまとめており、それをデータで預かってアナログに落とすという流れではあるが。
(このご時世に未だ紙ベースで資料を共有するとは―――)
環境への配慮が取り沙汰される現代の世の中。ペーパーレス化はその一端を担う重要な項目だと思っているのに、うちの会社はそういうところにまだ昔の空気が漂う古さを感じずにはいられない。
そもそも、人数分の資料のコピーが本当に必要なのか? そんなものは一枚や二枚のみプリントアウトして、共有エリアにでも貼っておけば済む話ではないのか。だいたい貴重な休憩時間を削って仕事の準備をやらなければいけないこと自体にセンスがない。ましてや、休暇明けの今日という初日。そんなことをしている時間があると思われていることが、全くもってストレスだ。
「おい、佐谷」
「……っ!」
苦虫を噛み潰すような気持ちでパソコンに向かっていると、デスクの脇に袋に入ったプラスチック容器が置かれ、空腹を誘う醤油と出汁の香りがふわりと鼻先に漂った。
「えっ、あ、宮部さん……」
「ほら昼飯だ。買ってきてやったから遠慮せずに食え」
「いッ? 良いんですかっ? しかもこれ、牛丼」
「ははっ、食うだろうと思って特別に大盛りにしておいてやったよ」
「ありがとうございます! ハッ、更に卵まで付いてる」
「お代は出世払いにしておくから、それを食ったら残りのメールもさっさと確認してしまえよ」
「は、はい! 有り難く頂きます!」
さっきまでのスレた気持ちが一瞬でなくなった。
フタを開けて、箸を割って、卵を落として、玉ねぎと牛肉がたっぷりと乗った丼を一口食べて感慨に浸る。
(う、美味い……宮部さん、最高だ……)
デスクでそのまま食事を摂るなんて、繁忙期であれば週のほとんどと言うべきくらいはザラにあることだ。体に良くないとは分かっているが、外出が重なっている日などは、その分、一日の内でデスクワークに使える時間は限られてしまう。だから、こんな昼食の摂り方は慣れていることではあるけれど、奢ってもらって食べる牛肉の味は、例えそれがチェーン店のファーストフードであっても美味いものは間違いなく美味い。
(宮部さんの言う通り、さっさと片付けてさっさと準備をしてしまおう)
容器に箸を渡してマウスを動かし、キーボードを叩いてペットボトルのお茶を口に含みながら、残ったメールの処理を終えて会議室へ行く為に席を立った。
準備まで終えて残った時間は十分程。それでも貴重な十分であるから、気分転換の為に休憩スペースへ移動し自販機で買ったコーヒーを飲むことで、少しは午後のミーティングのストレスも軽減されるような気がした。
編集者の仕事は非常に多岐に渡り、口にすればかなりの時間を要することになってしまうが、その内の一つとして作家宛に届いた手紙を本人の元へ届けるという業務も含まれる。
丁度さっき担当部署から連絡が入り、社内まで直接取り来るよう依頼が来たが、作家と言えど全員が全員同じ数の手紙が届くというわけではなく、俺の場合は特にその差は顕著なもので。
「こちらは早瀬先生の分、こちらが坂東先生の分、あとこちらが相楽先生の分です」
「……」
相変わらず、数が多い。
女性社員から渡された手紙は、その差が既に明らかに違っていた。
これはもう毎度のことではあるが、相楽先生……つまり相楽さんに届けられる手紙の量だけがいつも尋常じゃないくらい多いのだ。
それぞれ作家毎にまとめて渡される手紙の数々だが、相楽さんだけは袋や輪ゴムで留めるだけでは当然追いつかず、毎回段ボール箱に詰められた状態で受け渡しをされる。今回は六十センチサイズの箱だからまだ小さい方ではあるが、誕生日の時やバレンタインデーの付近はその量が二倍、三倍と跳ね上がる。
デビューしてから十年が経っているのだ、確かにファンの数も他の先生に比べれば当然と云うべく多いだろう。加えて、あの見た目と年齢と支持されている層の厚さだ。特に女性ファンの多さは、サイン会を行った時にも分かるくらい群を抜いている。
(発送の手配をする為に、都合の良い日時を聞いてみなければ……)
エレベーターを降りて編集部へ戻り抱えていた段ボール箱を足元に下ろすと、デスクに置いていた端末を手に取って相楽さんの連絡先を呼び出した。
この時間であれば執筆をしている最中だ。ついでに今週の打ち合わせの予定も決めてしまえば、一石二鳥というところか。
端末から伝わるコール音を聞きながら、手帳を開いてペン立てからボールペンを一本取った。二回、三回、コール音は四回目を響かせて、五回目を過ぎたところで何となく違和感を覚えた。
「あれ? 出ない。相楽さん気付いてないのか?」
八回目を過ぎた辺りで、流石に長いと思い一旦通話を切ることにした。
最近は執筆中であっても数回鳴らせば電話に出るのが当たり前になっていた。それが今日はどうしたというのか。また以前のように周りの音が聞こえなくなるくらい、強い集中力を発揮しているということなのか。
「まあ、またあとでかけ直すか」
繋がらないのであればと一旦諦め、預かってきた他の作家への手紙を処理する為に発送手配を進めることにした。
その時は何も思わず『珍しいな』というくらいにしか考えていなかった。
溜まっている仕事を片付け、かかってきた電話に応対して、必要なメールを返信する。
そうして二時間程が経ってから、小休憩を入れる為に席を立ち、もう一度相楽さんへ電話をかけてみることにした。
二度、三度、四度、五度……七度、八度とコールが鳴ってもやはり相楽さんは電話に出ない。
「……何だ? いったいどうして出ないんだ」
第六感、とでも言うべきだろうか。
何か嫌な予感が脳裏を過り、ざわざわと胸が騒ぐ感覚が込み上がってきた。
時計を見れば、夕方の十八時を過ぎている。
相楽さんはいつも朝の九時から夕方の十八時までを執筆時間と決めていて、この時間であればもう仕事を終えて一息ついていてもおかしくない。
それが、電話を鳴らしても一向に出ることがなく、折り返しがかかってくる気配も感じられない。
思えば、出勤前に送った私的なメッセージも今日はまだ返信が来ていない。
(何か、様子がおかしい―――)
仕事の定時までは、休憩時間を含めるとまだあと三十分程残っていた。
本来であれば今日は一時間程残業をして帰るつもりで、明日は朝イチに校閲部から戻ってきた原稿に目を通す予定をしていたが。
「それよりも、今は……」
端末を持ってデスクへ戻り、ひとまず途中になっていた業務に手をつけてそれだけでも片付けてしまうことにした。
時計の針が定時である十九時を過ぎ、早々に仕事を終えた先輩たちが帰り支度を整えている中。
「すみません、お先に失礼します」
パソコンの電源を落として鞄を掴み、返事が返ってくるより先に編集部を出てエレベーターへ乗った。
今から行けば、まだ終電までには帰ってくることができる。
鞄に入れたキーケースを手に取り、中を開いて金属のそれに目を細めた。
何もなければそれで良い。でももし何かあれば、俺が行くことで解決できることがある筈。
人の多い改札を抜け、乗り換え駅へ向かう為にホームへ滑り込んできた電車へ乗り込んだ。
車中から改めて相楽さんへメールを送ったが、返信が届くことがないままマンションへの道のりを一人急いだ。
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