キャバレー黒薔薇

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 あるところにおじいさんとおばあさんがおりました。  おじいさんは毎日庭木に水をやり、近所を散歩し、図書館で新聞を読むなどして過ごしていました。  おばあさんは老人センターでフラダンスをしたり、お寺巡りサークルにも入ったりと、毎日アクティブに過ごしていました。  おじいさんは真面目な男で、ずっと質素な生活をしてきました。  おばあさんの方は友達も多く、元来派手好きでしたので無駄遣いが多かったですが、結婚して五十と数年、これまで何とかうまくやってきました。  昨年だったか、ニュースや新聞で「老後の資金は二千万円必要」とか何とか言われていて、おじいさんは心配でした。  それでも、これまでどうにかコツコツと貯めたお金が銀行口座に五百万ほどありましたので、これで何とかしていくしかないと思っておりました。  体を悪くしたら医療費もかかるし、いい老人施設に入る金はない。この家でおばあさんと死ぬまで健康で、助け合ってやっていこう。おじいさんはそう思っておりました。  さて、今日もおばあさんはお寺巡りサークルの友達と遊びに行くなどと言って出かけておりましたので、おじいさんは夕方、家に一人でおりました。  植木の水やりを終え、ふとおじいさんが振り返ると、庭の真ん中に黒猫がおりました。おじいさんの方をじっと見ています。  おばあさんは猫好きでしたので、庭に来る野良猫に時々出汁ガラの煮干しなどを与えていました。  ですが、植木の根元に糞をしたりするので、おじいさんはあまり猫は好きではありませんでした。  おじいさんがサンダル履きのつま先でシッシッと猫の鼻先を蹴る真似をすると、黒猫はひらりと身を翻し、裏手の雑木林の方へ走って行きました。  おじいさんは家に上がり、居間のテレビをつけると、テレビではやっぱり老後の資金だとか、家庭の平均貯蓄額だとか、お金に関することをあれこれやっておりました。  おじいさんはふと思い立って、口座残高を確認しようと預金通帳を探しました。  近頃では、普段のお金の出し入れや支払いは、しょっちゅう銀行のある駅前まで行くおばあさんに任せっきりでしたので、おじいさんが通帳を見るのは数年ぶりのことでした。 「ありゃっ」  通帳を開いたおじいさんは声をあげました。  確かに以前見たときは五百と数十万円入っていたはずの預金が、今は三十万円ほどしか残っていなかったのです。  おじいさんは慌てて前のページを繰り、出入金の記録を確認しました。 どうやら半年ほど前から、何度かに分けて見慣れない男の名前の口座宛に送金されているようでした。 「ど、どういうこっちゃぁ」  おじいさんはへなへなとへたり込みました。  若い時分からコツコツ働いて、少ない稼ぎながら地道に貯金してきたお金が勝手に使われていたのですから無理もありません。  ちょうどそのとき、おばあさんが帰ってきました。 「お、おばあさんや!」  奥から血相を変えて走り出てきたおじいさんに、おばあさんは驚いて持っていたケーキの箱を取り落としました。 「なんやな急に大きな声出してからに。ケーキ買うてきたのに落としてしもたがな」 「ケーキなんてどうでもええんや。それよりおばあさん、この通帳」 「いや、気ィついたん」  おばあさんは悪びれもせずケーキの箱を拾って居間に向かいました。 「なんやこれ、五百万もなくなっとるやないか。何に使たんや」  おじいさんが問いただすとおばあさんはふてくされた口調で答えました。 「お友達とな、輸入雑貨のお店やるねん。そのお友達がいろいろ全部やってくれる言うから、お金預けてんねん」 「ゆ、輸入雑貨て」 「アジアの可愛らしい雑貨とか、あと輸入家具?ほらバリの、ラタンとか」 「お金預けたて、誰やこれ」 「お寺巡りサークルのお友達やん。今日もお茶しながらお店の物件見に行ってきた話聞いててんよ」 「なんでこんな、金……ちょっとはわしに相談したらええやないか」  おじいさんは涙声で言いました。 「ええやないの。これからお店したら儲けてすぐに戻すさかい」 「儲かるて決まってへんやろ」 「ラタンとか、安くで仕入れて高う売ったらものすご儲かる言うてはったで。ほな、いずれ倍にして返すさかい、それでええやろ。あんたが老後の資金が足らん足らん言うから増やしてやろう思てやってるんやん」  おばあさんはにくたらしい様子でそう言い放つと、おじいさんに背を向けてさっさと部屋を出ていこうとしました。  あんまりです。  預金は夫婦の共有財産です。むしろ働いて節約してコツコツ貯めてきたのはおじいさんです。それをどう考えても怪しい儲け話のために全部よその男に渡してしまうなんて。  涙がこぼれそうになり、思わず顔を背けたおじいさんの目に、ふと棚の上の灰皿が目に入りました。  どっしりと重い、分厚いガラスの灰皿です。  若い時にもらった立派なものですが、おじいさんもおばあさんもタバコは吸わないので、ずっとただの飾りとして置いてありました。  おじいさんは灰皿に手をかけました。  おばあさんは後ろを向いて、部屋の出口の手前でコートをハンガーにかけようとしています。  おじいさんは力を込めて、重たい灰皿を持ち上げました。  おばあさんさえいなければ、わしの金はなくならなかったのに。  おじいさんはおばあさんに近寄ると、渾身の力で灰皿を振りかぶり、おばあさんの頭に打ち下ろしました。  おばあさんは叫び声をあげて倒れました。血がどっと吹き出しておじいさんの顔にもかかりました。  おじいさんは無我夢中で、わけのわからないことを叫びながら何度も何度も灰皿でおばあさんの頭を殴り続けました。  すぐにおばあさんは動かなくなりました。  しばらくして我に帰ったおじいさんは、とりあえず風呂場に行き、血まみれになった手と顔を洗い服を着替えました。  だんだんと自分のしでかしたことの恐ろしさに震えてきました。  歳をとって、金がなくなって、そのうえ殺人を犯してしまった。わしはこれからどうなってしまうんやろうか。  おじいさんは震えながら廊下を戻り、居間を覗き込みました。  惨劇のあった部屋は床一面血まみれでした。 おばあさんは手前の床にバッタリと倒れ、頭がかち割れてぐしゃぐしゃに潰れています。血と脳漿の混じったような汁がまだボタボタと垂れています。テーブルの上には何事もなかったようにケーキの箱が置かれ、それがいっそう辺りの凄惨さを引き立てているようでした。  おじいさんが上からさらに覗き込むと、横にねじ曲がったおばあさんの顔が見えました。眼球が片方飛び出し、もう片方の目はカッと見開いたまま死んでいました。その目がおじいさんをギロッとにらんだように見えました。 「うひゃぁ」  おじいさんはもう恐ろしくて恐ろしくて、廊下に尻餅をつきました。  そのまま向きを変えて四つん這いになると、虫のように玄関の方まで這って行きました。  とにかくここから逃げなくては。  おじいさんは何とか玄関までたどり着き、靴をつっかけドアを開けると、こけつまろびつ夕暮れの町へと走り出しました。
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