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どれほど走ったでしょうか。気がつくとおじいさんはにぎやかな通りにいました。
いつのまにか辺りはすっかり夜でした。
どうやらそこは駅の近くらしく、道の両側には居酒屋やバーの派手な看板がたくさん出ていて、仕事帰りのサラリーマンや若者たちが楽しそうに歩いていました。
おばあさんを殺して逃げてきたばかりのおじいさんです。こんな明るい場所でうっかり知り合いにでも会うとまずいので、慌てておじいさんは目についた薄暗い横道に逃げ込みました。
にぎやかな通りからひとつ角を曲がっただけなのに、その路地は薄暗く、人の通りは全くありませんでした。
おじいさんはホッと息をつくと、額の汗をぬぐいながらトボトボと歩き始めました。
その時です。
おじいさんの耳に、かすかな音楽が聞こえてきました。
ジャズでしょうか、ドラムとベースのゆったりしたリズムにサックスの哀愁漂うメロディーが合わさり、何とも言えない切ない曲でした。
おじいさんは耳をすますと、音楽に導かれるようにふらふらと歩き続けました。
やがておじいさんは一軒のビルの前で立ち止まりました。
ビルの一階にはどっしりとしたドアがあり、上にはピカピカ光る電球で囲まれた看板がかかっています。
『キャバレー黒薔薇』
そう書かれた看板をおじいさんはぼんやりと見上げました。
「こんなところに、キャバレー……」
薄暗い路地の中、その店だけは煌々と看板を光らせています。どっしりとしたドアの両側には「ホステス多数在籍」「豪華なショータイム」「健全な店です」「お食事もどうぞ」「ダンスタイム」「生バンド演奏」などと書かれた色とりどりの札がたくさん貼られています。
そして、あの妙なる音色は確かにそのドアの向こうから聞こえてくるのでした。
おじいさんは若い頃から真面目一徹でしたから、夜の歓楽街にはとんと縁がありませんでした。ましてやキャバレーなど、入ろうと思ったことすらありません。
ですが、なぜだか今日はどうしてもその音色にひきつけられて、おじいさんはその場を動くことができませんでした。
どうせあとは捕まって刑務所に入れられるだけの身や。最後にこういうところで楽しむのもいいかもしれんな。
おじいさんはそう思いました。慌てて飛び出してきたのでお金はほとんど持っていませんでしたが、どうせ警察に捕まるのだから構いません。
よし、と勇気を出しておじいさんは初めてのキャバレーのドアを開けました。
ドアを開けると、一気に大きくなった音楽がおじいさんの耳に飛び込んできました。グラスや食器のかちゃかちゃいう音や、男や女の楽しそうな話し声も聞こえます。
店の中は意外なほどラグジュアリーな雰囲気でした。オレンジ色のムーディーな間接照明に照らされた臙脂色のソファーのボックス席が並び、天井には豪華なシャンデリアが下がっています。バンドが演奏するステージがあり、その手前には広いダンスフロアもあり、ミラーボールがキラキラと輝いています。
そしてそこかしこに色とりどりのドレスを纏ったホステスたちがいて、お客たちの相手をしています。
こんな場所ですから、どんなにか寂れた店だろうと思っていたおじいさんはびっくりしました。
「いらっしゃいませ」
蝶ネクタイをつけた吊り目のボーイに案内され、おじいさんは緊張しながら席に着きました。ホステスの指名を聞かれましたが、初めてなのでわかりません。ではおまかせで、とボーイが下がって、すぐに二人のホステスがやってきました。
おじいさんは右に黒いドレスのホステス、左に赤いドレスのホステスにはさまれ、つい自分のしたことも忘れてにやけました。どちらのホステスも美人で愛想が良く、特につやつやした生地の黒いミニドレスを着た方の娘は、色が白く目がぱっちりとしていておじいさんの好みのタイプでした。
いつしかバンド演奏はアップテンポの楽しい曲になっていました。
勧められるままにビールやカツサンド、フルーツの盛り合わせなどを注文し、おじいさんは音楽をバックにホステスたちと飲んで食べて楽しい会話をしました。
ホステスたちは聞き上手で、おじいさんの若い頃の話などを聞いては笑ったり感心したりしてくれるのでした。
「この世にこんな楽しいことがあったなんてなあ」
おじいさんが満足げにため息をつき、またホステスたちが笑い声を上げたところで、ステージの照明が暗くなり、スポットライトの中歌手が登場しました。
人気のある歌手らしく、あちこちから拍手が起こりました。
その女の歌手はピカピカ光る緑色のぴったりしたドレスを着て、長い髪を腰まで垂らしています。アコーディオンの演奏に合わせて体をくねらせながらシャンソンを歌い始めました。
悲しい、切ない歌でした。
おじいさんはうっとりとその歌に聴き惚れました。
いつの間にかおじいさんの目には涙がにじんでいました。
「おじいちゃん、大丈夫?」
黒ドレスのホステスが優しそうにおじいさんの顔を覗き込みました。
「おじいちゃん、何か困ったことがあるんじゃない?」
「わしは……」
おじいさんは言葉に詰まりました。おばあさんを殺してしまったこと。一生懸命貯めたお金がなくなってしまったこと。そんなことをホステスに相談しても仕方がないではありませんか。
すると、黒ドレスのホステスは急ににっこり笑っていいました。
「お金のことならあのお客さんに相談すればいいわよ」
「えっ」
おじいさんが驚いてホステスの指差す方を見ると、近くのボックス席にいた恰幅の良い紳士と目が合いました。
でっぷりとお腹の出た立派な身なりの紳士です。周りには何人もホステスをはべらせて、高そうな洋酒のボトルを置いています。
紳士は吸っていた葉巻を灰皿に置いておじいさんの方にやって来ると、向かいにドスンと座りました。
紳士は丁寧な物腰でおじいさんに話しかけました。
「お困りですか、おじいさん」
「いや、別に……」
おじいさんがとまどっていると、黒ドレスのホステスが笑いながら言いました。
「お金なら、このお客さんがいくらでもくれるわよ」
「その通り、いくらでもお金を差し上げます」
紳士は福々しい顔でにっこり笑いました。
「く、くれると言うても、どうせ高い利子を取るのやろ」
おじいさんがそう言うと、紳士はますますにっこりしました。
「いいえ、お貸しするのではなく、お金を差し上げると言っているのです。返す必要はありません」
「へえっ」
おじいさんは訳が分からず、これはどういった新手の詐欺だろうか、近頃は後期高齢者を狙った荒唐無稽な筋書きの詐欺が横行しているとは聞くがこれほどとは、などと思いながらあたりを見回しました。
ステージではあの歌手がまだやたらとクネクネしながら歌っています。クネクネしながら、おじいさんと目が合うと歌手は舌を出しました。人間離れした長い長い舌です。歌手はその長い赤い舌をペロペロと左右に震わせながらニヤリと笑いました。
「ひゃっ」
おじいさんが驚くと、紳士とホステスたちが一斉に笑いました。
「私は金玉の大きい男です。あなたにお金を差し上げます」
紳士が大きな声で言い、おじいさんに懐から出したいくつもの札束をぎゅうぎゅうと押し付けました。目を見開いてニヤニヤ笑い、生ぐさい息をおじいさんにフーッと吹きかけてきます。
おじいさんが思わず顔を背けると、隣に座っていた黒ドレスのホステスがぬっと顔を近づけてきました。
「おじいちゃん、よかったわね」
美しい瞳がいつの間にか黄色く光り、瞳孔が針のように細くなっています。ホステスは真っ赤な口をぱっくり開けるとシャーッという声を出しました。
「あなや!」
おじいさんはホステスを突き飛ばして逃げ出しました。
この店から出なくては。そう思うのですが、床のカーペットがやけにふわふわと足に絡みついてなかなか前に進めません。
やっとのことでドアまでたどり着いたと思ったら、吊り目のボーイがおじいさんの前に立ちはだかり、ちょいちょいと妙な手つきをしました。そのとたん目の前の景色がぐるぐると回りだし、おじいさんはばったりと倒れてしまいました。
「逃げようとしても無駄ですよ。なんたってここは、私の金玉の上ですからな。はあっはっはっはっ」
紳士の声が響き、おじいさんの視界が霞みました。それっきり、おじいさんは気を失ってしまいました。
どれほど経ったのでしょうか。
おじいさんがふと目を覚ますと、あたりは真っ暗でした。
紳士もホステスたちも、誰もいません。それどころかあのキャバレー自体が消え失せていました。
「ありゃっ、これはどうしたことじゃ」
おじいさんはどうやら地面の上に横たわっているようでした。
おじいさんが起き上がろうとしたちょうどその時、雲が切れて月が顔を出しました。
どうやらここは裏の雑木林の中のようでした。おじいさんの体の上には木の葉がたくさん乗っていて、動くとパサパサと音を立てて落ちました。
あれは夢だったのでしょうか。どこまでが現実だったのでしょうか。
やがて遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきました。
ゆっくりと起き上がると、おじいさんは葉っぱにまみれたまま、いつまでもぼんやりと座っていました。
とっぴんぱらりのぷう。
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