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目に突き刺さる痛いほどにの陽ざしに、アンは飛び起きる。
小鳥の大合唱は聞こえない。
アンは、とっさに置き時計に視線を走らせた。
一時……?
アンは手の甲で目を擦る。
なんてこと! 正午を回るまで、眠りこけていたなんて。
慌てて身支度を調えていると、扉が控えめにノックされた。
「どうぞ」
アンは短く応じながら、袖の最後のボタンを留め終える。
「メレディス様、お目覚めでいらっしゃいますか。いかが致しましょう? 『チャイニーズルーム』にお食事をお持ちしても?」
「ええ、ありがとう、お願いするわ」
メイドがお辞儀をして扉を閉めた瞬間、アンは深い溜息を洩らして、片手で額を押さえこんだ。
+++
そして午後。
アンはまた、アンテソープの庭へとさまよい出る。
少しずつ、秋の気配を孕み遠くなっていく空の色を見上げながら、アンは知らず、もう何度目になるか解らない溜息を吐き出した。
ダチェット伯爵の、あの冷ややかな視線。
そして、あの声ときたら。
なぜ? なぜ、あんな態度を取られなくっちゃいけないの。
ああ、もう、私ったら……。
こだわり過ぎよ。
そうやって、いくら頭の中から追い払おうとしても、繰り返し繰り返しどうしても。
アンの脳裡には、あの「気難し屋」の姿が、浮かび上がって仕方がないのだ。
無礼というより、あれは……。
あれは、軽蔑?
そうよ。彼は――ダチェット伯は、私を軽蔑しているのだわ。
アンは、はたとそう思い至る。
社交界ではまだ、ウッドレイ卿の元で起きた「あの事件」のことが噂されているのかしら?
夜会の話題は気まぐれだ。
どんなひどい醜聞も、次の話題が出てくれば、あっという間に忘れられてしまうもの。
数々の上流階級の屋敷で家庭教師をしていたアンにとって、それはとっくに承知のことだった。
自分にまつわる根も葉もない中傷に対して、アンがここまで超然としていられるのも。
「噂などいつかは消え去るのだ」と、そのことを自らの支えにしていたからだった。
「あの噂」は、まだ飛び交っているのだろうか……。
それどころか。
もっと口さがなくおぞましいことが、人々の口の端にのぼっているのかもしれない。
そう思いついて、アンは慄然とする。
そうだわ……。
そんなとんでもない噂を、あのひとが聞きつけない方がおかしいじゃない。
だって、伯爵はロンドンに行っていたのよ?
アンの指先が、冷たく痺れていく。
不品行でふしだらな女だと。
子供を非行に陥れる、ひどい家庭教師だと……。
伯爵はそんな風に思って、私を軽蔑しきっているの?
目頭が熱くなった。
熱いしずくが、頬を伝いこぼれ落ちる。
――涙。
それは、あまりにひさしぶりの感覚だった。
とっさには、それが何なのか解りかねて、アンはしばらくの間、涙を拭うこともできずに立ちすくむ。
喉を締めつけるように、嗚咽がこみ上げが。
そこでやっと、アンの強固な自制心が蘇る。
慌てて、指先で頬の水滴を拭った。
私は、何も恥ずべきことなどしていない。
これまでも。
そして、これからだって、そうなのだから――
咽びと涙とを、グッと飲み込んで、アンは首筋を真っ直ぐに伸ばす。
するとアンは、背後に何かを感じ取った。
まただわ……?
いつもの、あの気配。
半ばぼんやりと、アンは少し離れた薔薇の茂みへと目を向ける。
放埒な風情すら漂わせながら、名残の白い花が、こぼれんばかりに咲き乱れていた。
不意に花びらが揺れる。
これまで、ずっとアンが感じていた「気配」。
その姿が、いま忽然と目の前に現われた。
白薔薇の花びらよりも白い肌。
陽差しを受けて虹を放つ長い金の髪。
ごく淡い色の、やわらかそうなくちびるを持つ乙女。
まあ、妖精だわ……。
やっぱり、この庭には妖精がいたのね。
アンはひどく納得した気持ちになる。
薔薇の陰に佇み、「妖精」は揺れる蒼い目で、どこか物問いたげな風にアンを見つめていた。
その金の巻き毛が、ふわりと揺れた。
やわらかい布地の夏のドレスの裾をひらめかせ、妖精がアンの傍へと近づいて来る。
その白磁の肌をした指には、ごく小さな白百合が握られていた。
あれは……ヒメユリの花かしら?
でも、あんな真っ白のヒメユリなんて、見たことがないわ。
すると妖精は、手にしている白い星のような花を、アンのきつく結い上げた赤毛にそっと飾った。
そしてすぐさま薔薇の向こうへと駆け去っていく。
その妖精の後姿に、アンは訊ねた。
「あなたはどなた? 名前を教えてくださいな。私はアンよ」
けれども、妖精はひとことも応じない。
そのかわりに、とてつもなく甘美に微笑み、アンの心をとろけさせると、踵を返し、庭のどこかへと消え去ってしまった。
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