倫敦へ

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2 リックこと、リチャード・キンドル。 彼がダチェット伯爵の家令(ハウス・スチュワード)となったのは、ちょうど、レディ・ユージニア・リリアンの結婚式直前のことだった。 リリアンは、ダチェット伯爵オーガスト・スタンレーの末の妹で、皆から『リル』と呼ばれて慈しまれている、まだ二十歳にもならぬ令嬢だ。 はかなくも陽差しに透き通るような白い肌に華奢な身体。 渦巻く巻毛は金に輝き、大きな両の瞳はサファイアの色をしている。 なるほど、妖精というものが実在するとしたら、きっとこんな様子をしているに違いない―― リルの姿を初めて見た時、リックはそう思わずにはいられなかった。 さて―― 先代のダチェット伯、すなわちオーガストの父は、腹心だった高齢の家令を亡くしてからというもの、その代わりを置かなかった。 そして、現伯爵たるオーガストもまた、家令を雇い入れてはいなかった。 一方、リックはと言うと、その頃、さる大地主(ジェントリー)に仕えていた。 だが、持ち前の有能さが仇となり、他の古参の家令のやっかみを買っていたところであった。 陰で足を引っ張ろうとする同僚からの嫌がらせや苛めに、リックは、ひたすら耐え続けていた。 もちろん、その忍耐には理由があった。 勤め先での「もめ事」は、意外に狭い上流階級の内々に、すぐさま知れ渡る。 いくら「やっかまれてのこと」とはいえ、「もめ事を引き起こすような使用人だ」との評判が立っては経歴に傷がつくし、今後、良い勤め先にも移りにくい。 とはいえ「優秀」なリックのこと。 それまでに仕えてきた家々での評判は、大層良かった。 そしてついに、その評判はダチェット伯爵夫人アンの耳にも入ることとなった。 「多忙なオーガストには家令が必要だ」と。 アンは、常々考えていた。 そこで、夫であるダチェット伯爵に、こう進言した。 「聞くところによれば、リチャード・キンドルは若いながら、とても経験豊かで信頼が置けるとのこと。オーガスト、是非、彼を家令として雇い入れるべきですわ。きっと貴方の役に立つでしょうから」 無論、「最愛の妻アン」の「思慮深い言葉」に、オーガストが逆らうことなどめったにない。 リックはめでたく、ダチェット伯爵家の家令として雇い入れられることとなった。 アンは聡明な伯爵夫人だ。 表向き、「出しゃばった真似」など、決してしない。 だから、これはあまり外に知られていない―― 社交界随一の『気難し屋』で、おそるべき「やり手」の美丈夫であるダチェット伯爵は、実のところ妻のアンにはめっぽう弱いのだということは。 とにもかくにも。 この『気難し屋』の伯爵は、愛しい妻に首ったけだった。 さて、リックがオーガストと初めて顔を合せた時のこと。 オーガストの不機嫌ぶりは相当なもので、まさしく『気難し屋』という噂に違わぬ様子だった。 さすがのリックも、これには驚き、そして、ひどく不安な気持ちにさせられた。 しかし、リックがその不安を募らせる間もなく、伯爵夫人アンは、その不機嫌のワケを、あっさりと、こう暴露した。 「ミスター・キンドル。オーガスト(ロード・ダチェット)の眉間の皺については、なにも気にする必要はなくてよ。このひとったら、妹を友人に嫁がせたくなくて、子供みたいに拗ねてむくれているだけなんですから」 そう言って微笑んだアンの灰色の瞳は、理知的な輝きを宿しており、くちびるは、ごく懐っこかった。 白い百合の髪飾りが、つやめくアンの赤毛にひどく良く映えていたことを。 リックは、いまだにありありと思い出せた。 それにつけても―― 『気難し屋』の渋面の下、常に押し隠されているとはいえ、オーガストの妹リルへの溺愛ぶりもまた、大変なありさまだった。 当時リルは、ダチェット伯爵の旧友セオドア・バートラムと婚約していた。 すでにウェディングドレスも縫い終わり、式の日取りも決まっているにもかかわらず。 オーガストときたら、いまだに妹の結婚について首を縦に振ってはいなかったのだ。 それは「妹に対する兄の対応」というよりはむしろ、まるで「娘を嫁にやる父親」のようだった。 まったく、あのマーシー卿が、娘をブランドン男爵に嫁がせた時の大騒ぎぶりにも勝るとも劣らない……と。 リックも思わず、今まで仕えてきた「多様」で「個性的」な主人たちのことを振り返ってしまったほどだ。 ということで。 大抵の人間がすっかり臆しまう、オーガストの眉間に刻まれる深い皺にも、苛立たしげな溜息にも、そして棘にまみれた皮肉な物言いにも、家令リック・キンドルは、ほとんど動じることはなかった。 リックとオーガストは、馬車を降りるとロンドン行きの列車に乗り込んだ。 オーガストは早速、先ほど馬車の中でリックがより分けた書類に目を通し始める。 そして、気になる点を思うがままに、向かいに座る家令へと問いかけた。 リックは、十二分な正確さと迅速さで、それに応じていく。 その答えに、オーガストは満足気に頷いた。 「妻アンに勧められて」雇い入れた家令とはいえ、リック・キンドルが有能な使用人であることは、微塵の疑いもない。 その働きぶりには、オーガストも、予想以上に満足していた。 まだ三十になったばかりのオーガスト。 リック・キンドルは、それより四、五歳は若い男だ。 けれどもリックには、歳にそぐわぬ、どこかひどく「すれて」世慣れたところがあった。 オーガストとて、その点については「小癪だ」と、気に障らぬことがないではない。 だが、もはや今となっては、「リックなくして伯爵家の運営など考えられない」ことは認めざるをえないのだ。 それにしても、先程のこの男(リック)の「物言い」ときたらどうだろう?  書類を捲りながら、オーガストは、内心で苦虫を噛み潰す。 ――「もし」、レディ・リリアンのお具合が「優れなければ」だと? ロンドンの旧友に嫁がせたリルに対する、兄としての自分の心配ぶりを。 この家令は、なんとも小馬鹿にしているのだ。まったく。 これほどまでに優秀でなければ、さっさとクビにしているところなのだがな? このリック・キンドルなど―― そして、オーガストの完璧な形のくちびるから、思わず、棘を纏った吐息が洩れ出でた。
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