メランコリー

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メランコリー

18 「気にしないでくれ、ミス・メレディス」 そうは言われたものの。 オーガストに要らぬ手間をかけさせてしまったのかもしれないという後ろめたさは、折に触れて、アンの心をチクチクと刺した。 そして、アンテソープ探索の方はといえば、まだ、あまりはかどっていなかった。 (あるじ)がいないのなら、「執務の邪魔」とやらになることもない。 館を見て回るにはうってつけだと。 いつものアンであれば、好奇心に導かれるがまま、果敢にそうしたに違いなかったし、はじめのうちは、折を見てそうするつもりでいたのだ。 けれど。 どうしてかしら、失って困るものなんか、私には何もないはずなのに……。 アンは心中で、そう呟く。 家族も、とうにない。 教区牧師だったアンの父は、実直で教養あふれる人物だった。 母はアンが幼い時に亡くなっており、自分が代わりに父を支えねばと。 アンは幼い頃から、そう心に決めていた。 アンの父はしばしば、パブリックスクールや大学の休暇で戻ってくる上流家庭の子弟たちに補習を行っており、そんな父の講義を耳にしながら育つことによって、アンは、随分と知見を広げてきた。 聡明なアンを、ことのほか愛し、可愛がっていた父も、まださほどの歳にもならぬうちに、あっけなく病で逝ってしまった。 それからというもの、決して身を持ち崩すことなく、自らの力だけで、アンは世の中を渡ってきたのだ。 理不尽な言いつけに、唯々諾々と従って生きるようなことはしてこなかったし、そうまでして守るべきものなど、そもそもアンにはなかった。 あえて言うならば、アンが「守りたい」と思ったのは、自分の信念だけだった。 そしてそれは、知識と理性に裏打ちされたものであり、形だけの礼儀や因習や、おためごかしの綺麗事などを、アンは、まったく重んじてはいなかった。 だが、そんなアンであったにもかかわらず。 このアンテソープで、あまり安易に、執事の言いつけにそむく気には、いまだ、どうしてもなれなかった。 アンの心にかかっていたのは、フローレス嬢のことだった。 万が一にも、私の軽率な振舞いのせいで、あんなにも親身になってくれた人の顔を、潰すようなことになってはいけない―― そう思うと、どうしてもアンの行動は、慎重にならざるをえないのだ。 そしてアンは、部屋に吹きわたる風に誘われて、今日もまた庭へと出る。 太陽の最後の滴りのような、終わりゆく夏の陽射し。 名残の花々、草木の葉が薫る。 実際、アンは、このアンテソープの庭に魅せられていた。 朝の小鳥たちの声も、昼の強い光も、紫に暮れなずんで木々をシルエットへと変えていく黄昏時も。 すべてが、ただ美しかった。 この場所に、心底、魅了されている自分に気づくたびに、アンはひどく戸惑った。 そして、自らをきつく戒める。 ここは、「私の場所」ではないのよ? アン。 これはただ、ほんのひとときの、そう、夢みたいなものなのだから……と。 庭をさまようアンは、いつの頃からか「何かの気配」を感じるようになっていた。 誰かがそっと、花々の陰から自分を見つめているような、そんな気配を。 それは決して厭な感じではなかった。 だからアンは、その「正体」をしゃにむに突き止めようという気にもなれないでいた。 妖精か小人でもいるのかしら……? 子供じみたことを思いつき、アンはふと笑みを洩らす。 そうよ、この庭にならいるかもしれないわ。 こんなに素晴らしい場所なのですもの。 きっと、ここは魔法の庭なのね。 夏の終わりは、そんな魔法にうってつけだわ……。 極彩色に彩られたアンテソープの秋の庭も、きっと、さぞ美しいことだろう。 花盛りの春もまた、見事に違いない。そして、すべてが白く覆いつくされる冬も。 けれど私は、そのすべてを見ることは、おそらくないのだ―― 最後にはいつも、アンの心に、その想いがよぎる。 そんな感傷の情に胸が締めつけられて、目頭が熱くなるのを、アンは止められなかった。
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