スキャンダル

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スキャンダル

19 夜会への出席。 それは、普段であれば、まずめったにオーガストのすることではなかった。 ちょうど仕事の用向きで晩餐を共にしていた紳士が、「今宵、チェイニー夫妻の夜会へ足を運ぶのだが、一緒に来ないか?」と、オーガストに声を掛けたのだ。 無論、断っても良かった。 「チェイニー夫妻の夜会」と言えば、「ゴシップ展示場」の代名詞であることは、社交界の面子なら、誰もが知っていた。 だがなぜだか、そんな会へ出向くことに、ふとオーガストの気が向いたのだ。 めったにない「気難し屋」の登場に、夜会の座は、ひとしきり沸く。 久方ぶりに顔を見る学生時代の友人たちもいた。 ひととおり、挨拶を交わして回るだけでも、オーガストは、随分と時間を取られた。 溜息をついて、やっと手にしたグラスに口をつけた時だった。 「『自らの存在価値を高めたいなら、しばらく姿を消してみるに限る』とか、そんな意見もありますがね、ダチェット伯?」 真性にバスの音域であろう深みのある低い声が、オーガストへと語りかける。 「しかしながら皮肉にも、人によっては、すべての者の記憶から完全に消えてしまって終わる場合もあるようですな」 それは朗らかながらも、決して威厳を失わぬ口調だった。 オーガストは、その声の主へと、静かに視線を向ける。 おそらく「彼」と言葉を交わすのは初めてだ。 背筋の伸びた力強い身体は、かなりの長身。 濃い色の髪には、もういくぶんか白い物が混じっている。 しかし五十をとうに越えているはずの、その紳士が、いまだ社交界において圧倒的な人気を誇る「ダンディ」であることは、オーガストすらも知っていた。 そして、最近のひそかな流行となっている青灰色のウェストコートは、この紳士――シェスタべリ伯爵マクラクラン卿が身につけていたのを、皆が真似るようになったのだということも。 「これは、シェスタベリ伯爵。ごきげんよう」 オーガストの挨拶にシェスタベリ伯は、ウェストコートと同じ色の目をふっと細め、何とも言えない茶目っ気溢れる笑顔を浮かべてみせる。 「先だっての、陛下臨席のロイヤル・ミューズ。運よく入場がかないまして、名高い貴君のドレッサージュ演技を目にする機会を得られのだが、なんとも素晴らしかった。いやはや、それしか言葉が出ませんな、ダチェット伯爵。それに、あの見事な青毛。たしか、セイラム号とかいいましたな」 自惚れるつもりはなかったが、ロイヤル・ミューズでの演技は、確かに会心の出来だった。 シェスタベリ伯の言葉に、オーガストの気分は、随分とくつろいだものになる。 シェスタべリ伯が続けた。 「先代のダチェット伯も……お父上も、馬がお好きだった」 「父と面識が? ロード・マクラクラン」 こう問いかけてすぐに、オーガストは、この御大が夜会の花であるだけでなく、随分とシティに出入りしている人物であることに思い至って、得心する。 「いかがですかな、ロード・スタンレー。たまに夜会にいらしたのだから、下世話な話のひとつやふたつ、耳に入れていかれるのも一興では」 思いつきのように、シェスタベリ伯の口をついて出た言葉に、オーガストの眉が、ひくりと動いた。 そもそも―― オーガストが、めずらしくも「夜会に出てみよう」などと思いついたのは、ある「噂話」を仕入れてみる気になったからなのだ。 シェスタベリ伯爵の提案は、まさに「渡りに船」であった。 もちろん、オーガストが訊きたかったのは、アンテソープの「客人」にまつわる「醜聞」のことだった。 何といっても、自らの館に滞在させている人物のことなのだ。 いくらフローレス小母の「友人」だからといって、本当に信頼の置ける人間なのか、確かめずにおられようか? 「ご存じでしょうが、私は非常に世事に疎い性質(たち)でしてね、シェスタベリ伯。まずは、このところの一番の話題でもお聞かせ願えますか」 オーガストは、ごく率直に、こう口にした。 「ふむ……」と短く唸り、人差し指をこめかみに押し当ててから、シェスタベリ伯はゆったりと喋り出す。 「ついこの間まで、特にご婦人の皆様がたは、ウッドレイ卿の地所での『事件』に目がなかったのですが……いかがですかな?」 シェスタベリ伯の言葉は、いきなり核心をついてきた。 オーガストは思わず息を飲む。 「その『事件』とやらの存在自体は知っていますが、良く分からない話のようですね。つまりは一体、何があったというのです?」 素直に話題に食いついてきたオーガストに向って、シェスタベリ伯は、ふわりと身を乗り出してみせた。 「『実際のところは』ですな、ダチェット伯爵。緘口令が引かれていて何もわからんのです。まあ、だからこそ『噂のしがい』もあるのでしょうがな」 「結局、はっきりしたことは、何も解らないと?」 失望のあまり、オーガストは眉間に深い皺を寄せる。 だが、シェスタベリ伯は、一瞬の間を置いてから、わざとらしく声を潜めて、また口を開いた。 「そもそも貴君は、ウッドレイ卿『御自身』にまつわる醜聞については、ご存じかな? ダチェット伯爵」  +++
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