主の帰還

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左翼へと入り、ズンズンと廊下を進み行きながら。アンはむっつり口を曲げる。 「執務室」とやらは、右翼の一番端。 館のほぼ中央にあった。 「旦那様の御執務の邪魔をしたくないから」左翼には立ち入るな?。 まあ、まあ、まあ!! 本当に、なんて見え透いた嘘なの?! アンは猛烈に憤る。 けれども、そんな怒りに心を乱されていたにもかかわらず、読書室は、すぐに発見できた。 それを見過ごす人がいるとは思えぬほど、大層立派な物だったからだ。 ドアノブに手を掛けて、アンはそっと、部屋の扉を押し開ける。 ひだまりの匂い。 そして、乾いた皮と紙の匂いがした。 まずアンは、その香りを胸一杯に吸い込む。 ひと気はなかった ときめきとスリルに、アンの胸が高鳴る。 天井にまで届く書棚が、壁を埋め尽くしていた。 様々な本の背文字が、アンに囁きかける。 ここにだったら。 幽閉されたとしても、一生過ごせるかもしれないわ。 アンは、心中でひとりごちて、ほどけるように微笑む。 棚から棚へと、目移りしながら、アンは奥へと進んでいった。 広い部屋には、古い古い長椅子や小卓があちこちに置かれている。 ガラスケースに並んでいるのは、稀覯本かしら?  あっちはマニュスクリプトね。それに版画のような物もあるわ。 本当に、これは「探検の価値あり」よ。 ここを見ないで、アンテソープを去るなんて。ひどい片手落ちもいいところ。 読書室の窓辺には、マホガニーの重厚な書き物机がいくつも並んでいて、やわらかなモスリンのカーテンが風に揺れていた。 カーテンが、揺れて―― あら、窓が開いているの? へんね、掃除のメイドが、閉め忘れたのかしら。 そんなことを思いながら、アンは手を伸ばして窓を閉めた。 ふと、なにかが鼻先をかすめる。 それは、ほのかな、甘い香りだった。 アンは振り返る。 しかし、そこにあるのは書棚だけだった。 アンはゆっくりと、そちらへ近づいていく。 「あら、これは『隠し戸棚』ね?」 その棚の一部分は、だまし絵として本の背が描かれた戸棚になっていた。 だまし絵の戸を、幾つか開いてみる。 「あら、写真がある」 アンは独りごちながら、棚の中から、小さな額縁を取り出した。 これって、もしかして、先のダチェット伯が撮影なさったものかしら。 まあ、これ……。 あの「気難し屋」じゃない?! 十かそこらのブルネットの少年が、馬の首に腕を回して、はじけるように笑っている。 整った鼻筋も、綺麗な顎も。 あきらかに、あのオーガスト・ユースタス・スタンレー卿のものだった。 写真の中の少年の笑顔。 その愛らしさに、アンの胸が締めつけられる。 こんな顔をして笑ってた男の子が、なぜ「あんな風」になってしまうのかしら? アンは、知らず吐息を洩らしていた。 きっと、今だって。 笑顔は、とっても素敵なはずなのに……。 そんなことを考える自分が滑稽に思えて、アンはふと、嘲笑めいて口を歪めた。 だって別に、彼が笑おうが笑うまいが、私にとってはどうだっていいことでしょう? 違う? 「まあ、たしかに。あの猛烈に失礼な態度ばかりは、どうかと思うけれど?」 そんな風に、ポツリと心中を口にしたアンは、また、ふと何かを感じ取る。 あら、今のは? これは、いつも庭で感じる「気配」だわ。 灰緑色の目をふっと細め、アンは白く細い顎に親指と人差し指を当てて俯いた。 ひそやかに、読書室の隅々へと視線を巡らせる。 でも、何もない。 誰もいない。 モスリンのカーテンを揺らす風すらも―― アンは静かに立ち上がる。 そして手近の棚から数冊、目に付いた本を抜き取って、読書室から滑り出た。  +++
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