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「その白いヒメユリは、随分と珍しいものらしい。この辺りでも、なぜかアンテソープにしか咲かないと、一部の学者連中の間で有名なのだ」
「まあ、そうでしたの?」
アンが声を弾ませる。そして、
「私、これをお庭の『妖精さん』にもらったんですわ、ダチェット伯爵」
と、茶目っ気溢れる笑みをこぼれさせた。
「妖精」?
聡明なはずの、しかも妙齢のガヴァネスが口にした、あまりに子供じみた言葉に、今度はオーガストが首を傾げる。
しかしすぐに。
オーガストは、その言葉の意味を鋭く勘づいた。
「ミス・メレディス、どうやら、君は庭でリルと出会ってしまったようだな」
それは冷たく突き放すような言い方だった。
オーガストの吐き捨てた言葉に、アンの心が、またしても冷たく凍てつく。
だが気丈にも、それを顔には出さぬまま、アンは、眉間の皺をこれ以上ないほどに深くしている「気難し屋」に向かって言い返した。
「『リル』ってどなたですの、伯爵? ええ確かに、私はお庭で、大変美しい娘さんにお目に掛かりましたわ。金の巻毛はまばゆいばかり。遠い南の空のように美しい蒼い目をして、この世のものとは思えないほど可憐で儚い様子でした。沈み込んでいる私を慰めるために、ふと薔薇の陰から姿を現したあの方が、ダチェットに住まう妖精でないとするなら、一体、なんだというのでしょう?」
ああ、やはりな……と。
オーガストは、深い溜息をつく。
このご婦人は、ニ、三日で帰るような客ではなかったのだ。
どうやったって、いつかはどこかで、リルと顔を合せる可能性はあった……。
「ロード・スタンレー?!」
アンが、いま一度、鋭く詰め寄る。
オーガストは、また深々と吐息を洩らしてから、重い口を開いた。
「ミス・メレディス。君が逢ったのは、僕の妹、ユージニア・リリアンだ。確かに可憐で儚げかも知れないが『妖精』ではなく、ただの人間だよ」
「妹」ですって――?!
ダチェット伯に、妹君がいらしたなんて、今まで一度だって耳にしたことがあったかしら?
これまで、あちこちで耳にしてきた社交界の噂の記憶。
アンはすかさず、それを紐解く。
けれど、心当たりはまるでなかった。
明らかに困惑しているアンの表情を見て、オーガストがちいさく嗤う。
「リルのことは、社交界でも知る者は少ないだろうな。ごく一部の……先のダチェット伯の知人たちくらいしかね。リルは幼い頃から、ダチェットを出たことがないのだから」
「まあ、どうしてですの? 伯爵、なぜそんなことが……」
そうよ。
少し頼りなく幼げに見えたけれど、あの娘さんは。
おそらく、もう社交界にデビューしていてもおかしくない年頃に違いないわ。
なのに、ここから出たこともないだなんて?
ああ、でも。
あの愛くるしさ。あの美しさ。
そうね、もし彼女が一度だって、外の世界に姿を現したことがあったなら。
あっという間に、その存在は知れ渡っているはず。
いいえ、そうでなくてはおかしいわ。
ということは、やはり――
伯爵の言うとおり、あの可憐な妖精は、アンテソープから出たことがないの?
「妹君を……レディを、ここからお出しにならないのは、なぜなのです? 伯爵」
「ミス・メレディス、それが貴女に何の関係があろうか?」
即座にオーガストから返されたのは、うわべの慇懃さを取り繕うことすら忘たような。冷たくぞんざいな言葉だった。
アンの心がひるむ。
けれども、アンはこう続けた。
「確かに、私には何の関係もありませんわ、伯爵。けれど、それって、貴方が妹君を、たったおひとりのまま、長い間、放置なさっているということではありませんの? 違いまして? たったおひとりで、友達もないまま、ここにいるだなんて。何というむごいことをなさるの。見ればこの家には、あのお方の話し相手になりそうなご婦人の姿もありませんわ」
「君は、何も解っていない!!」
オーガストが声を荒らげた。
アンが、びくりと肩を痙攣させる。
紳士として、あまりに不適切な振舞いであったと。オーガストは、すぐさま思い至った。
非礼を詫びる言葉が、その完璧な形のくちびるから紡がれる。
だがふたたび、ごく皮肉な形に口の端をひきあげると、オーガストは氷の声でこう続けた。
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