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「リルは、口がきけないのだ。話相手など居ても仕方無かろう?」
口がきけないですって?! まあ、そんなことって。
アンは驚きに息を飲む。
そして、先の「妖精」の様子を、いま一度思い返した。
確かに、声は聴いていないわ……。
名前を訊ねると、すぐに走り去ってしまったもの。
ああ、あれは、声に出して答えることができなかったから。
だからなのね。
そしてアンは静かに、だが決然とこう告げる。
「それでも、貴方は間違っておいでです、伯爵」
オーガストが、ごく不服気に片眉を引き上げた。
「私は、レディ・ユージニア・リリアンのお話相手になれると思いますわ。ええ、そうさせて頂かなくては」
「……話相手? 何を言い出すのだ、ミス・メレディス。妹は……リルは口がきけないと、僕はたった今、言わなかったか?」
「たとえ声が出なくても、レディ・リリアンには、心を打ち明け、語り合う相手が必要です。自分の思いを示し、誰かの話に耳を傾ける。人は誰でも、そんな相手を必要としているのですから」
ただじっと、この庭の中、小鳥のように閉じ込めておくだけなんて、それでは駄目よ。
人はもっと、世界と他者と、触れ合い交わらなくては――
決然と言い放つアンの気迫に、オーガストは返す言葉もなく立ちすくむ。
だがしかし。
誰よりも何よりも愛おしく思っている自らの妹のことで、赤の他人に知ったような口をきかれ続けるのも、無性に腹立たしかった。
ふと、ロンドンの夜会でシェスタベリ伯から仕入れた噂話の数々が、オーガストの胸に思い浮かぶ。
「なるほど、ご高説はもっともだ。ミス・メレディス。君のように色々な人物と『交わって』きたご婦人ならば、リルの話相手として、さぞ『うってつけだ』とでも言うわけかい?」
「交わって」の部分。
その単語に、そしてその抑揚に込められたいわく言い難い含みたるや……。
あまりの皮肉の刺々しさに、アンは首筋から氷水を浴びせられたように身震いした。
ひどい、ひどすぎるわ。
ああ、伯爵は、きっとロンドンで。とてつもなくおぞましい噂を。
私に関する目茶苦茶な醜聞を耳になさったに違いない――
けれどもアンは、ぐっと奥歯を食いしばり、毅然と顎を上げる。
「そうですわ、伯爵。私は『うってつけ』だと思いますの。すくなくとも貴方よりはね。なぜって? 私は貴方よりもずっと『思いやり』というものを持ち合わせておりますから。そして、妹君のお相手をするには、それだけでも十分過ぎるほどだと思いますの。貴方の、その人をたまらなく不愉快にさせる渋面を見続けさせられるよりはね?!」
「なっ……!」
そうひと言発したきり、オーガストの声は言葉にならなかった。
「では、失礼しますわ。伯爵」
アンはスカートを軽く引き揚げると、ごく丁寧に膝を曲げた。
そして、ヴェランダに佇むオーガストの前を横切って、滑るように館の中へと入っていく。
フランス窓の脇では、執事が立ち尽くし、呆然とアンを見つめていた。
アンは、エヴァンズへと、視線を向ける。
「エヴァンズさん? 左翼へ行ってはいけない理由って、もしかしてレディ・ユージニア・リリアンのお部屋があるせいなのかしら? だったら、もう宜しいのでしょう? 私、館の左側に足を踏み入れても」
まあ……。
実のところ、もうとっくに、足は踏み入れているのですけどね。
という言葉は、胸の中で呟くにとどめ、アンはエヴァンズの前を通り過ぎる。
そして、部屋を横切ると、扉を開け、廊下へと出ていった。
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