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アンの足はまっすぐ左翼へと向かっていた。
読書室の扉を押し開ける。
前に来たときと同じだった。
ひと気はなく、陽だまりの匂いが漂っている。
アンは、ふわりと微笑んだ。
部屋の中央に立って、周囲を見回す。
「こんにちは、ここにいらっしゃるのでしょう? 姿を見せて、妖精さん」
返事はない。それどころか、物音一つしなかった。
だが、アンは確信に満ちた表情で、ふたたびこう言う。
「ねえ、レディ・リリアン。すてきなお花をありがとう。貴女とお友達になれないかしら? お願いよ。また私の前に出てきてくださいな。ダチェットの可愛い妖精さん?」
ことり、と音がした。
アンは振り返る。
オーガストの写真を見つけた隠し戸棚のある本棚。
その一番端、だまし絵の本の背が動く。
金の巻毛の乙女が、おずおずと、一番大きな戸棚の中から姿を現した。
「まあ! そんなところに隠れていたのね」
アンは目を丸くする。
隠れ家から出てきた妖精は、皺になったドレスの裾を引っ張って、懸命に襞飾りを整える。
そして、蒼い蒼い瞳でアンを見上げると、ひとつちいさくカーテシーをして見せた。
アンも、丁寧にお辞儀を返す。
「ごきげんよう。レディ・ユージニア・リリアン。私、アン・マリア・メレディスと申しますの。ダチェット伯爵のご厚意で、アンテソープに滞在しております。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
アンの礼儀正しい挨拶に、妖精は困ったように瞳を揺らす。
「ええ、存じておりますわ。お声を出すことがおできにならないってことは」
アンは微笑んでこう付け足す。
妖精は、心底、安堵したように溜息を洩らした。
「レディ、早速に不躾ですが、『リル』とお呼びしてもよろしくて? どうか、私のことは『アン』と」
ダチェットの妖精――すなわち伯爵令嬢ユージニア・リリアンが、こっくりと頷く。
「嬉しいわ、ありがとう、リル。あら、なんて冷たい指なんでしょう?」
アンは、リルの白くか細い指先を握る。
「ねえ、あちらの窓辺で、ひなたぼっこをしながらおしゃべりしましょう?」
リルの蒼い瞳が、かすかに凍りつく。
それをすぐさま察し取って、アンがふたたび、やさしくリルを見つめた。
「声が出なくったって、『おしゃべり』はできるわ。ほら、ここに紙とペンを置いておきましょう。それに、私、貴女をよく見ていれば、きっとおっしゃりたいことが解ると思うの」
リルのくちびるが小さく動く。
あ、ん……と。
「あらまあ、今。私を呼んでくれたの? リル。貴女、くちびるを動かすことができるのね。なんて素敵」
言ってアンが、灰緑色の目をぱっと輝かせる。
その理知的な瞳のきらめきは、リルの心を、とてつもなく惹きつけた。
ああ、このひとは、なんてやさしく笑うのかしら――
リルの胸は、せつないほどの多幸感で締めつけられる。
壊れそうにはかないリルの指先が、アンのドレスの肩へと伸ばされた。
「どうしたの? リル……」
アンがとまどいの声を上げる。
リルが背伸びをした。
するとと、アンの頬に、ちいさなぬくもりが押し当てられる。
それが、「ダチェットの妖精」のやわらかなくちびるだと気づき、アンはひと声、「まあ」と洩らしたきり、陶酔のあまり言葉もなかった。
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