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倫敦へ
1
「こんな揺れる馬車の中で、よくも文字など読めたものだな」
ダチェット伯爵は、氷の表情をひとすじも乱すことなく、こう口にする。
『気難し屋』というふたつ名を持つダチェット伯オーガスト・スタンレー卿。
その名に違わず、美しいが、ごく不機嫌そうに歪められたくちびるから吐き出された言葉は、皮肉なのかそうではないのか、判断が難しい。
しかし、そんな風に声を掛けられた伯爵の家令であるリックはといえば、主人の言葉は、常に、ただ「言葉通り」に受け取ることと決めていた。
なので、手にした書類から目を上げることなく、リックは伯爵に向かって、涼しくこう返答する。
「別に慣れてしまえば、どうということも。列車の中で、旦那様に必要な部分だけ、目を通して頂くためには、今のうちに精査の必要がありますから」
オーガストは、軽く鼻で嗤うような相槌を打つと、窓の外を見やる。
無論リックも、伯爵がなにやらイラ立っているらしいことを感じ取っていないわけではなかったし、その焦りめいたイラ立ちの「理由」が何であるのか、実のところ察しもついていた。
書類を捲る指は止めぬまま、リックは言う。
「……そうご心配なさらなくとも、ロンドンで、バートラム様のお宅を訪問する時間は、十分お取りになれるかと。旦那様」
オーガストはリックを無視し、ただ窓をうち眺めている。
そんな主人の冷淡な態度にも、まるで頓着することなくリックは続けた。
「ロンドンでは、レディ・ユージニア・リリアン・バートラムは御健勝でお過ごしでしょうか。しばらくお目にかかっていませんが」
すると、オーガストが黒曜石の目を、ひとつ瞬かせる。
「リルといえば……そもそも、ロンドンのような空気の悪い街になど住むべきではないのだ。まったく、テディのヤツが、『あんな仕事』を続けているせいで、リルはあんなところに住む羽目に」
自らの声が苛立ちを帯び、大きくなったことに気づき、オーガストは、ふと言葉を途切れさせる。
そして、やや決まり悪げな表情を浮かべた。
その間も、傍らのリックは手にした書類に、淡々と目を走らせていた。
車輪の音、そして、蹄の音が響く。
「すこしでも具合が悪そうなら、一緒にダチェットへと連れて戻る。なんといってもリルには、『清浄な空気』が必要に違いないのだから」
呟くように、オーガストが言った。
目を通し終えた書類の束を揃え、リックが静かに顔を上げる。
若き家令と、主人の目と目が合った。
リックが何かを言い返そうとする前に、オーガストが、すかさず続ける。
「アンも、是非にそうしろと言っている。リルをダチェットに連れてくるよう言っていた」
「伯爵夫人が?」
リックが、ごく小声で問いかける。
「そうだ、アンがだ」
オーガストが即座に応じた。
リックが、堪えきれずに、小さく笑いを洩らした。
「『もし』レディ・リリアンの『お具合が優れなければ』、ダチェットへ『連れ戻せ』と?」
「……そうだ」
ひとこと、飲み込むように言うと、オーガストは腕組みをして、瞼を閉じる。
どうやら、リックが、言葉の端々に混ぜ込ませた皮肉の棘は、しっかりとオーガストの心に突き刺さったようだった。
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