悲しき思い出 ~ヒガンバナは彼女との~

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悲しき思い出 ~ヒガンバナは彼女との~

 宿無しになってからしばらく。ひたすら町を歩き、途中で飯を食らい、たまに適当な場所で休みながら、寝床を探す生活も慣れてしまった。  大通りの並木が真っ赤に染まるこの季節になると、コンクリートの隙間からときどき赤い花が咲く。  僕はそこに座り込む。冷え切った手で花を弄んでいると、聞こえてくる気がするのだ――あの優しい声が。  あれは秋雨で空気がひんやりとしていた日のことだった。神社の軒下で一輪の赤い花を眺めていた。 「そちらの花はヒガンバナと言うんですのよ」  そう優しく声をかけながらストールをそっとかけてくれたのが出会いだった。 「こんなお花を一人で眺めているなんて……何か悲しい思い出でもありましたの?」  とにかく麗しい人だった。冷えた手をぎゅっと握って微笑む姿は天使にさえ見えた。 「こんな雨の日にこんなところにいては風邪を引いてしまうわ。そうだ、うちに来てはどうかしら」  僕はこくりと頷いた。  それから車に乗せられ、しばらく揺られると、彼女の『うち』に着いた――庭付きのとても広い『うち』だった。 「これからはここがあなたのおうちよ」  彼女は僕を招き入れた。僕の汚れまくった体に嫌な顔一つせず、終始にこにこしながら話しかけてきた。人の声を聞くのは久しぶりで、どういう反応をすればいいのか忘れてしまっていたけれど、このときの気まぐれは私の一生を大きく変えた。  この人のために生きてみるか。  こうして彼女――アスカ様はその日から僕の主となった。  アスカ様はとにかく御心の広いお方だった。流れ者だった僕をそばに置いてくれるだけではなく、僕専用の部屋を用意して下さり、そして何より私を毎日気にかけて下さった。 「ここの暮らしには慣れたかしら?」 「昨晩は寒かったけれど、よく眠れた?」  生まれてすぐ親に捨てられた僕は、初めて母親を得た気がした。否、姉と言うべきか。細かい言い方はともかくとして、私の得た初めての家族だった。  そして、この家には住人がもう一人いた。ナルセという若い男だ。アスカ様と同様に上品な雰囲気を醸し出しているが、アスカ様と同じ立ち位置という風には見えなかった。「私はアスカお嬢様のシツジでございます」と言っていたが、彼もアスカ様のために生きる人らしかった。  アスカ様はときどきこの男に僕を託した。ずっと怖い顔をした男だったが、怖いことをする人ではなかった。 「あなたもお嬢様に拾われた身でございますね。私と同じでございます」  そう言いながらアスカ様のいない時間を一緒に過ごしてくれた。  アスカ様とナルセ。僕にとっては唯一無二の家族だった。季節が変わるたびにいろいろなところで連れ出してくれた。長く宿無し旅をしてきた僕だったが、彼女らと行く道はどこも知らないところだった。  初めてのお出かけで行った公園は紅葉が綺麗で。  車で出かけた雪山で、初めて雪に触れた。  暖かくなった頃には舞い降る桜が珍しく。  暑い時期には初めて海に行った。  なにもかもが初めてだった。世界が広くて、美しかった。そして何より、どこへ行っても楽しかった。  こんなのがずっと続くなんて幸せ者だと思った。最高だと思った。  でも、そんな毎日はいきなり終わった。  アスカ様に拾われて一年が経とうとしている日のことだった。庭で赤い花を眺めていた。なんとなく出会った日のことを思い出したい気分だった。  しかし、そんな気分はパチパチという音で掻き消えた。初めて聞くその音に、僕はすぐに中に戻った。  香ばしい匂いが鼻を通ってきた。いい香りというより焦げた匂いだった。それに室内の気温が妙に高い気がした。そろそろ冬が始まろうという季節だったから暖房が点いていてもおかしくはないが、それにしても暖かい――否、暑かった。  僕はアスカ様を探した。直感的に探さねばと思った。僕の部屋にはいなかったから廊下に出た。  そして僕は目の当たりにした――廊下の向こうで燃え盛る炎を。  僕はとにかく火とは反対方向に駆けた。逃げねば――自分の命が大切だった。  気付くと僕は家を出ていた。お尻で感じた熱気で振り向くと、一年の時を過ごした家が真っ赤な炎に包まれていて、次の瞬間、轟音とともに崩れた。  ――アスカ様!  気付いたときはもう遅く、原形を失った我が家を黙ってみているしかなかった。  それが二年前のことだ。あれからまた放浪の旅が続いている。  僕は所詮独り者だ。いくら家族のような存在ができても、それは家族ではない。やはり自分の方が大切で――僕はあのとき結局、アスカ様とナルセを見捨てたのだ。  赤い花が咲くたびに、僕はあの日を思い出す。その花びらとあの日の炎が重なってしまうが、僕は目を逸らすわけにはいかない。 「そちらのお花はヒガンバナというものでございます」  頭の上から声がした。聞きなれた声だった。ふっと見上げると、見慣れた顔がそこにあった。 「探しましたよ」  そう言いながらその人――ナルセは僕を抱きかかえた。  さて参りましょうか、と歩き出すその行方に僕は何も言わない。片手に抱えた花束を僕はすでに見つけているから。 「にゃおん」  僕は返事をするように、声を出した。 了
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