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1 如月
漂う煙草の香りに包まれ、店内を歩く。
コンクリ打ちっぱなしの、無機質な冷たい印象を与える壁。高い天井には配管がむき出しになっている。
およそ寛げるような店内ではないが、濃紺のソファーに深く腰掛けるお客の口許は弧を描いていた。
仕切りの代わりに置かれた水槽では、魚たちが優雅に身を揺らし泳いでいる。
店内を満たすのはブルーのスポット。流れる音楽は海のさざめき。
ソファー席は全て埋まっていて、今夜も不埒な行いがされていないのを確認し、口許を僅かに弛める。
カウンターに視線をずらし、シェーカーを振るバーテンダーの動きを観察した。
見習い期間中のバーテンダーの動きに、眉間に皺が寄ってしまう。
やはり、圭が欲しい。
章の口説きを交わし、未だにバイトで通している圭。端整な顔をしているあの金髪の男。
メガネのブリッジを押し上げ、カウンターから視線を外した。
入口横にある階段を上り、中二階にあるスタッフルームに向かう。
ソファーとテーブルが一つずつ、他には鏡と棚、そしてロッカーが並ぶ。その奥には事務室があり、鍵を外して中に入る。
事務室からは店内が一望できる位置に窓があり、マジックミラーが嵌め込まれていた。
定位置の重厚なデスクに合わせた皮張りの椅子に腰かけ、今月の売上のチェックを始めた。
「如月、いるか」
ノックと共に入ってきたのは、黒髪を後ろに流した章。この店のオーナー。
見た目を裏切らない出来る男だが、手が早いのには多少困る。最近は従業員に手を出すことは止めたようだが…いつ気が変わるかは謎。
章は妙なところで野獣のスイッチが入る、厄介な男だから。
「章、機嫌が良さそうですね」
切れ長の相貌を弛め、妙に浮かれている章に眉が寄る。
「わかるか?」
言いながら、だらしなく口許を弛めて近づいてきた。
座っていた椅子のひじ掛けに手を置き、章は顔を寄せて笑った。
「圭が落ちた」
耳許に囁かれた言葉に納得し、右手で章の体を押して退かした。
「ずいぶんと時間がかかりましたね」
章は顔を引き締め、肩を竦めた。眉が少し下がっているのに、嫌な予感がした。
「ただな、シャドーでないと駄目だそうだ」
「…役立たず、帰れ」
ため息混じりに暴言をはく。
圭といい義憲といい、どいつもこいつもシャドーとは。圭のフレアは、シャドーよりブルーでこそ光るのに。
腹立たしい気持ちをぐっと堪えて、章を睨み付ける。
「悪かったよ、バーテンダーどうだ?」
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