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何だったんだ、今の。いや、最後の投げキッスだけじゃなくて、ビルが現れてから去るまでの一連の流れよ。
レイトは嵐のような出来事に、しばらく呆けていた。
「レイト君?」
近くで聞こえたその声はさっきまで聞いていたはずなのだが、さっきとは別の人が発言しているのだと、不思議と理解できた。本来の彼の性分が、穏やかな声色として表れている。
レイトは視線を落とし、マスターを見た。彼は横たわっていた体を起き上がらせて、座る体勢をとろうとしている。マスターの腹は何ともなく、大きなケガもなさそうだ。
彼の無事に安堵した。その気持ちが芽生えてすぐに、自分が抱いてはいけない感情だと気づいたが、自然と湧き上がってしまったその気持ちは中々離れてくれない。その思いが強い分、胸が締め付けられる。ハルバードを握る手に力が入った。
頭の中の葛藤とは裏腹に、何も言わずただマスターを見るレイト。そんな彼に、マスターは柔らかい笑みを向けた。
「レイト君、見どころあるね。ユキと結婚しても歓迎するよ」
急に何を言い出すんだこの人は。
無言で怪訝な表情をするレイト。それをNOと受け取ったのか、マスターは別の提案をする。
「じゃあ宿で働かない? レイト君、無愛想だから裏方がいいかも」
「……俺のことそんな風に思ってたんすね。嫌です」
「貯えはあるから、ちゃんと給料出せるよ?」
「そういう問題じゃなくて」
「うーん、ダメかぁ」
「何なんですか。新手の命乞いですか」
レイトは険しい顔つきでハルバードを両手で構えた。しかしマスターはその場から動こうとしない。困ったような笑みで、レイトを見上げている。
「レイト君が宿にいてくれたら、安心して死ねると思ってね」
悪魔が体から離れたことで、勝ち目が無いと思ったのだろうか。
表情では笑みを絶やさないマスターだが、体は震えている。その光景から目を逸らしたくなる気持ちをどうにか捨てて、ハルバードを斜めに振り上げた。
「死に際に変な話聞かせないでください」
レイトの目元が力む。瞼が動き、瞳に反射する月明かりが少し揺れた。
マスターは、それを真っ直ぐに見ていた。
「人を殺すって大変だよね。どうしてレイト君は――」
「やめてください」
「……そうだね、ごめん。でも最後にひとつだけ」
マスターは尻をついて座っていた体勢から正座に変え、背筋を伸ばした。
彼の言葉を待っている間、レイトは振り上げたハルバードの柄を強く握り、手の震えを抑えていた。
「レイト君に会えてよかったよ。ありがとう」
………………ひとつじゃねーじゃん。
言い返してやりたいのに、口が思うように開いてくれない。下手に喋れば、冷静な装いが出来なくなる気がした。
マスターは手を膝の上に置き、目を瞑った。
「ほら、いつでもおいで」
怯える子供を優しく迎える様な、穏やかな声と笑み。それが彼の本質であることは分かっていたが、その態度が却って心を抉る要因になることを、彼は知らないのだろう。
レイトは歯を食いしばる。
滲んで視界が歪んでしまう前に、ハルバードを振り切った。
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