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第7話 波紋
それから五分ほど歩いて東雲探偵事務所に到着した。高層ビルの間にひっそりと佇む、赤レンガの壁が特徴的な古い洋館。見慣れた事務所の姿だ。
「ここだよ」
深雪はそう告げつつ玄関から中に入ろうとするが、雷龍と影剣は後に続く気配がない。どうしたのかと振り返ると、二人は呆然として事務所を見上げていた。
「こ……これは……」
「お前たち……こんなボロくて古臭い建物に住んでいるのか!?」
影剣と雷龍の表情は、驚愕を通り越してドン引きしていた。《東京中華街》の摩天楼で生活している彼らにしてみれば、この洋館などウサギ小屋も同然だろう。
ここで毎日、寝起きしている深雪としては、何だか複雑な心境だ。
「そりゃ《黄龍太楼》に比べれば小さいし、ボロいだろうけど、住めばそれなりに都だよ」
すると雷龍は何やら同情と憐れみの籠った視線を向けるのだった。
「お前っ……! 見た目によらず苦労してるんだな……‼」
「まあ苦労……? うん……」
(《中立地帯》じゃ、これくらいフツーだと思うけど……)
それでも事務所の洋館はまだマシなほうだ。《中立地帯》では外観がまともでも、中は住めたものではない建物が数多くある。一度荒れ果ててしまった住居を立て直すのは、並大抵のことではない。事務所の周囲に林立しているビルも、外側は頑健に見えても無人のフロアは多い。そんな環境は《東京中華街》では考えられないことなのだろう。
雷龍たちの発言に違和感を抱いたのは深雪だけではなかった。そばで話を聞いていた火澄が、深雪の耳元に顔を寄せて囁く。
「雨宮さん、この人たちお金持ちなの?」
「詳しくは言えないけど……お金持ちなのは確かだよ」
深雪が苦笑していると、今度は雷龍が声をかけてくる。
「その娘は、お前の知り合いか?」
「火澄ちゃんって言うんだ。二人はこの子のこと、どう思う?」
雷龍と影剣が火澄のことを知っているのか否か。深雪はどうしても確かめておきたかったのだ。
「雨宮さん……?」
「どう、とは?」
質問の意味を図りかねたのだろう。火澄と雷龍は揃って疑問符を浮かべる。
「どこかで見た覚えがあるとか」
「いいや、まったく知らん」
「あたしも、この人たちのこと初めて見るよ」
念押ししてみるが、二人とも首を横に振るばかりだ。
「その娘は《中立地帯》のゴーストなのだろう? 我々と接点があるわけが無いではないか」と影剣も怪訝な表情を浮かべている。
「それもそうだよね……ごめん、今の話は忘れて」
深雪はすぐその話題を引っ込めた。ただひとつの確信を抱きながら。
(やっぱり二人は火澄ちゃんのことを知らないんだ)
今のところ雷龍と影剣にとって、火澄は《中立地帯》で生きる普通の少女の域を出ていない。彼らが火澄の素性を知っているなら、もっと強い関心を示したであろうことだけは間違いない。
(ただ……紅神獄が火澄ちゃんの母親だっていう確たる証拠もないんだよな……)
DNA検査でもすれば血縁関係がはっきりするのだが、紅神獄は気軽に面会すらできない雲の上の存在で、現状では不可能だ。できれば、何らかの手掛かりを得たいところだが。
ここで根掘り葉掘り尋ねたら、逆に不信感を抱かれる可能性もある。深雪はそう考え直し、雷龍と影剣に声をかける。
「パーティーは屋上でやっているんだけど、東雲探偵事務所以外のゴーストもいるんだ。うちの事務所のメンバーはもちろん二人の事を知っているし、絶対に情報を漏洩したりしないけど、中には一般人もいる。どこで情報が漏れるかは分からないから、念のために偽名を使うのはどうかな?」
雷龍は「ふむ」と腕組をする。
「偽名か……面白そうだな」
「雷龍は『王龍』さん。影剣は『張影』さん。それでどう?」
「まあいいだろう……お前はどうだ、影剣?」
「雷様がよろしいのであれば、私も異存はありません」
「じゃあ決まりだね。それじゃ行こうか」
深雪は三人を伴って事務所の屋上へと向かった。雷龍と影剣は珍しそうに事務所の中を見回しているが、敵地の視察といった緊張感は欠片もない。貴重な保存建築物を見学するみたいな好奇心いっぱいの眼差しだ。
池袋のあたりは二十年前の面影が残っていないくらい激変している。建物やビルも新しいものばかりだから、これほど古い建物自体が物珍しいのだろう。
屋上にたどり着くと、飲んだり食べたりがひと通り落ち着いたのだろう。みな、のんびりとした雰囲気で寛いでいた。
深雪が戻ってきたことに真っ先に気づいたのはシロだ。
「ユキだ! ようやく帰って来たよ!」
オリヴィエも「火澄も一緒のようですね」と柔らかく微笑む。
「火澄ちゃん、いらっしゃーい。こっちにおいでよ!」
火澄にぶんぶんと手を振っているシロは、俊哉や花凛、《ニーズヘッグ》のメンバーたちと一緒だ。ちらっとこちらを見上げる火澄に、深雪は笑顔で頷く。
「行っておいでよ」
「……うん!」
火澄が駆けていくのと入れ替わりに、今度は亜希が近づいてくる。
「ずいぶん遅かったね」
「ごめん、待たせちゃって」
「それはいいけど……何かあった? 何かトラブルに巻き込まれたんじゃないかって、みんなで心配していたんだよ」
「トラブルってほどじゃないんだけど……ちょっとね」
すると深雪の後にいた雷龍が身を乗り出し、屋上の光景を一望すると、意外そうに目を見開いた。パーティーという言葉から格式張った催しを想像していたようだが、実際は気安い集まりなので驚いたのだろう。
「これはバーベキューとかいう奴か……」
「その様でございますね、雷様」と影剣がそつなく答える。
「おもしれえじゃねーか。こういうアウトドアイベントは知ってはいるが、やったことは無い」
「まあ周囲が高層建築ばかりだと、あまり煙を出すわけにはいかないからね」
黄龍太楼からもくもくと煙が出ている光景を想像し、深雪は苦笑いを浮かべた。雷龍も影剣もバーベキューが生まれて初めてなら、誘った甲斐があるというものだ。
亜希は深雪に小声で尋ねる。
「この人たちは?」
「黄じゃなくて……こちらが王龍さんで、こちらが張影さん。以前、すごくお世話になったんだ。火澄ちゃんを迎えに行った時に、たまたま再会して……成り行きで連れてきちゃったけど、良かったかな?」
「幹事はお前だろ、深雪。お前が良いなら、いいんじゃね?」
銀賀たちは、雷龍と影剣が深雪の知り合いだと信じてくれたようだ。何事もなく二人を新しい客として迎え入れ、ドリンクや料理を勧めている。彼らが《レッド=ドラゴン》の幹部だと誰も気づいていない。
だが東雲探偵事務所のメンバーは、ひと目見て雷龍と影剣が何者であるか悟ったようだ。マリアや流星は目を見開いて呆気に取られている。
深雪がクーラーボックスからドリンクを取り出していると、マリアは車椅子を俊敏に走らせつつ、血相を変えて食い気味に迫った。
「ちょちょちょちょ、ちょっと深雪っち‼ あれ!あの二人組‼ もしかしなくても、もしかしてぇぇぇぇぇっっ‼‼」
「……多少、変装はしているが、間違いなく黄雷龍と黄影剣だよな。《レッド=ドラゴン》の。どうなってんだ……!?」
衝撃と怒りのあまりろれつが回らないマリアに替わって、流星がその後を引き継ぐ。とはいえ、流星の口調にも困惑と動揺が滲んでいるが。
「火澄ちゃんを迎えに行ったら、たまたま出くわしちゃって。そのまま事務所のパーティーに呼ぶことにしたんだ。まずかったかな?」
するとマリアはクワッと両目を見開いた。
「まずいどころか由々しき一大事よ‼ 《レッド=ドラゴン》なんて、うちにとっちゃ最大の敵、敵中の敵、キング・オブ・ジ・敵でしょーが‼」
「何かそれ、一周回って仲が良さそうだね」
「ん・な・わ・け、ないでしょ‼ ねえ深雪っち、これはどういう事かなー? 深雪っちもいろいろ経験して、少しは変わったと思ってたのに、オツムが初期化して退化しちゃったのかナー?」
マリアが強大な負のオーラを放ちつつ、ブチ切れた顔でにじり寄ってくるので、深雪は慌てて弁解した。
「ち、違うって! あの二人を連れてきたのには、ちゃんと訳があるんだ! 雷龍と影剣が《中立地帯》のゴーストと衝突したら深刻な問題になるでしょ! 《中立地帯》側も《レッド=ドラゴン》側も! それよりは事務所に呼んだほうが安心だと思ったんだよ」
「まあ《中立地帯》で騒動を起こして『国際問題』に発展するよりは、俺たちの目の届く範囲にいてもらった方が助かるっちゃ助かるが……いいのかこれで!? 《レッド=ドラゴン》の幹部クラスのゴーストが、お忍びとはいえ《死刑執行人》の事務所に来るなんて聞いたことねーぞ!?」
そもそも《休戦協定》には《中立地帯》と《東京中華街》、そして《新八洲特区》は互いの領域を侵さないという条項が盛り込まれている。だから《レッド=ドラゴン》の構成員が《中立地帯》にやって来ること自体、あり得ない話なのだ。
流星もさすがに頭を抱えて呻いている。マリアとは違い、深雪が雷龍と影剣を事務所に連れてきた意図をちゃんと理解しているが、この状況がにわかには信じられないようだ。
オリヴィエのほうは幾分、冷静だった。
「良いのではありませんか? この場には女性や子供もいますし、彼らも乱暴な行動には出ないでしょう」
「あの二人も東雲探偵事務所に来てまで、わざわざ騒ぎを起こしたりしないよ」と深雪もフォローを入れる。
それでも流星はこの状況に馴染めないらしく、大きく溜め息をついている。
「黄雷龍と黄影剣か……よりにもよって、そんな大物を捕まえて来なくてもいいだろーに!」
「仕方なかったんだ! 下手に放っておくわけにもいかないし……あの二人は《中立地帯》の事を知りたいだけで、何か企んでいるわけじゃないと思う。だから、このままパーティーを続けてもいいかな?」
するとマリアは剣呑に両目を細め、深雪を睨みつけた。
「そういう台詞は、連れ込んでから言っても意味ないよね。あたしたちが『駄目、追い出せ』って言ったら、深雪っちは従うの?」
「それは……」
「ほーらね、そういうとこがさあ! 甘いのよ、深雪っちは‼ ほーんとポンコツなんだから! だいたい、どうして勝手に判断しちゃうのうよ? いつも何かあったら連絡しろって言ってるでしょ!?」
深雪への怒りがマリアを覚醒させてしまったのか、引きこもりの情報屋はガミガミと威勢がいい。毒舌も絶好調だ。
(さっきまで太陽や煙がどうのこうの言って、死にかけてたくせに……)
深雪は内心でつぶやくが、口に出すと半殺しにされそうなので黙っておく。なおも罵倒しようとするマリアの前に、奈落が口を挟む。
「連中の好きにさせておけばいい。もし敵対行動を取るなら、制圧するまでだ」
そう言って奈落は豪快にワインの瓶を煽った。雷龍と影剣の二人に、口で言うほどの警戒心は抱いていないようだ。
「彼らは《レッド=ドラゴン》でも高位のゴースト……決して弱くはありません。そう簡単にいくでしょうか?」
オリヴィエが首を捻るが、奈落の答えは素っ気ない。
「数ならこちらが勝る……そうだろう? 引き籠り」
奈落の言い分としては、このまま様子を見ろということだろう。奈落やオリヴィエは外国人であるせいか、《監獄都市》の勢力争いには関心が低いところがある。流星やマリアほど《レッド=ドラゴン》や《アラハバキ》に確執を抱いてないのだろう。
マリアはしばらく「納得できない」という表情をしていたが、とうとう大きな溜め息をつき、降参の意を表した。
「もう……分かったわよ! どうなってもあたしは知らないからね!」
「認めてくれるの?」
深雪がぱっと顔を輝かせると、マリアは不機嫌モードに逆戻りだ。
「バッカじゃないの!? あたしが深雪っちを認めるなんて、ぜったいに……ずぇーーったいに有り得ないっつーの‼」
「うん、分かってるよ! ありがとう!」
「ちょっと待ちなさいよ! あたしの話、聞いてんの!?」
「聞いてるよ、続きはまた後でね!」
深雪はマリアに手を振りながら、ドリンクを手に雷龍と影剣の元へ戻っていった。
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