鼠空の出逢い

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鼠空の出逢い

世界の何処かの午后にて、またひとつ、扉が、ぎぃっと開きました。薄淡い白が、辺りにすうーっと、たち込めています。沢山の、艶々した玉水(しずく)が銀の把手(とって)に静かに佇んでいて、まるで、霧掛かる奥深い森に、ぽつんと立っているみたい。静謐(せいひつ)で、ちょっぴり物悲しいような、午后のお話です。 猫塚さんは、いつまでも続く曇り空を、お店の中から見上げて、それから、自分の首元に、しっかり着けた純白の蝶ネクタイを、見遣りました。猫塚さんは勿論、雨の日も好きですけれど、今年の梅雨はかなーり長め。だから、純白のパリッとして、綺麗な蝶ネクタイを見ると、心のちっちゃな真珠貝が、ぽこぽこって、優しく鳴るのです。それは、貝殻が真珠を、大事に大事に抱き締めるみたいな、音なのでした。 曇りって、不思議ですにゃあ。 いにゃいにゃ。こっちの話にゃんですがね。ふと感じまして、にゃ。 お客様、曇りって、鼠みたいにゃ色だと思うじゃにゃいですか? でもでも、実際は真っ白にゃ空にゃんですよね。 それが、不思議だにゃあ、って。 確かに、そうかもしれません。曇りを描こうとしたら、真っ先に取るのは、灰色のクレヨンです。でも、実際に、お店の窓から覗くのは、何処までも真っ白な空。真っ白過ぎて、まるで、色を塗る前のキャンバスか、画用紙みたいなのでした。距離感が、分からなくなっちゃいそうな、掴めない、不思議な空です。 お客さんが、確かにそうだなあ、って午后の曇り空に頬杖をつきながら、うんうん。頭の隅で思っている内に、猫塚さんが、すっと出したのは、旬の桃をシロップでことこと煮詰めて作った、コンポートです。 冷蔵庫で、ひやひや冷やした桃は、透明なシロップがきらきら光って、とぅるるん。ちゅるん。それに、重石をして作った自家製の、水切りヨーグルト。ヴァニラビーンズの黒いつぶつぶが大人の味、バニラ・アイス。最後にじゅうじゅう、焼き上がったのは、大きな真ん丸いお皿に乗った、フレンチ・トースト。 それらが全部、猫塚さんの前脚で、巧みに合体してゆきます。さながら、戦隊ロボットみたいにね。先ずは土台。しっかりもの、皆んなを纏めるフレンチ・トースト。冷静な、水切りヨーグルト。紅一点、艶やかなくし切り、桃のコンポート。お調子者、だけど滑らかさは天下一品、真ん丸バニラ・アイス。ちっちゃいけれど一番重要、戦隊の要、薄荷(ミント)の葉っぱ。じゃきーん!合体完了! どんより、吹っ飛ばし隊!!ですにゃ! お好みでシナモンをふりふりして、下さいにゃあ。 そんな猫塚さんに、お客さん達は、笑いを堪えられません。くすくす、って、小さく微笑うお客さん、顔がにこにこしっ放しですよ?猫塚さんも、やっぱり長ーい曇り空、嫌だったんですね。 にゃにゃっ! そんにゃ事はありませにゃん。 ふい〜ふい〜と、吹けない口笛を吹くふりをしている、猫塚さんの(かお)は、ぷぷっ。それじゃどっちがどっちだか、分かりませんよ。 今日は紅茶を淹れますにゃ〜。 結局、はぐらかされてしまいました。代わりに、ぱこんと、金色にぴかっと煌めく、茶葉缶の蓋を開けた猫塚さん。途端に店内は、紅茶葉のいーい香りに包まれました。鼻から抜ける、優しくって、爽やかな、朝みたいな、香り。でも夕摘みのお花みたいな、瑞々しさも、兼ね備えた、安らぐ香り。 とぽとぽ、とぽり。 猫塚さんが白磁のポットから、カップになみなみと紅茶を注ぐ音だけが、店内に響きました。 その、湯気の柔らかなことと言ったら! そう言えば、このソファも鼠色でしたにゃ。 紅茶のカップを配り終わった猫塚さんは、一人掛けのソファを見つめました。このソファは、猫塚さんが街に来て、いっちばん始めに買った、猫塚さんの買い物なのです。 実を言いますとにゃ、このソファ、染めてしまおうかにゃ……って思ってたのですにゃあ。 猫塚さん、どうやら驚く程よく染まる洋墨壜(インクびん)を手に入れたんだそう。その洋墨壜は香水みたいに小さいのに、一滴垂らすだけで、どんなものでも染められるんですって。 魔法使いに、頂きまして。にゃ。 そう鳴く猫塚さんは、捉え所が無くって、何処まで本当か、分からなくなります。それが猫塚さんらしくって、居心地良くも、あるのですがね。 洋墨壜の中には、誰もが待ち焦がれた、あの、目の前いっぱいに広がる、晴れた、(そら)色が入っていました。目の覚めるような、鮮やかなターコイズ・ブルー。 天色が、恋しく、愛しく思えるのは、いつだって真っ白にゃ曇り空にゃあ。 そう鳴くと、猫塚さんはいつも通り、硝子の洋盃(グラス)をきゅっきゅっ、磨き始めました。でも、見つめる先は鼠色の、ソファです。 「何故、染めてしまわないの?」なんて、野暮なこと、お客さんは誰一人として言いません。出かかった人も、ちょっとくらいは居ましたが。 でも。 猫塚さんの(ひとみ)を見たら、そんなのは引っ込みます。猫塚さんは、きっと今、大事な大事なことを、考えているのです。多分、一生懸命に。その大事なことは、きっと凄く、凄ーく、言葉にするのが難しい、気持ち、なのです。だから、お客さんは皆んな、猫塚さんの気持ちを、尊重しました。いつだって、猫塚さんが自分達にそうしてくれたように、ね。店内は、温かい紅茶を飲む音が、仄かに、ちかちかしました。 猫塚さんは勿論、猫です。だけれど、どんな猫でもあって、どんな猫でもありません。やわやわ肉球で、貴方の為に、紅茶をとぽとぽ淹れる、猫なのです。 此処はねこづかふぇ。 お客さん達と、店主の距離が、近いようでいて、遠かったりしなくもない。そんな丁度良い距離感がある。そんな、場処。世界の何処かの午后で、誰もが訪れる事が出来る不思議なカフェは、行き方は、本当に様々あるけれど、辿り着けたら、貴方はもう、常連さん。 いつでも待って、いますにょで。 いつだって来て、いいんですにゃ。 その時って、いつでしょう? 明日、どんより曇りの午后かもしれないし、一ヶ月後の、八月のぴかりとした晴れかもしれない。一年後の、貴方が忘れた頃だったり、彗星が輝く氷の尾を引いた、数百年後の未来かも。或いは、千年前の樹液に閉じ込めた、琥珀の記憶の中からかも、しれません。 其れが、ねこづかふぇにゃにょで。 心地良い音量のBGMが流れる中、お客さん達は声に出さず、ひっそり心の中で「知ってるよ」って呟きます。その中には勿論、此の物語を読んでいる、貴方も、含まれているんですよ?だから、言ってあげて下さい。猫塚さんに。「知ってるよ」って。大丈夫です。きっと猫塚さんは、貴方の声を聞いて、宝石みたいな睛を大きくした後、そうですね。今、貴方が思い浮かべた通りの反応を、する筈ですから。ええ、そうですとも。絶対、です。もしかしたら、サービスで撫で撫でさせて、くれるかも? 当店お触りは、してませんにゃー。 猫塚さんは、ぷんぷくぷん。でも、渋ると結局触らしてくれる、そんな甘い所も含めて、猫塚さんだなあ、と、お客さん達は思います。 素敵なカフェは、良き店主との出逢いの他にも、素晴らしい隣人と、出逢えたりも、するのです。貴方、みたいな人と。ね。それって、とってもワクワクすること。 自慢の、ねこづかふぇですにゃ! 約束の場処は、何時ものカフェで。 そんな合言葉が生まれる日を、店主はにゃむにゃむ、夢みて。相変わらずの、鼠色の曇り空に、きらり。洋墨壜の、あの、天色が見え隠れし始めます。 雨上がりは、何時だって、何処かのカフェを思い浮かべてしまう、茴香(アニス)の匂いがしました。 87506da3-7ce3-410f-a7d9-10b2bd7186ac
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