蝶々のはばたき

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蝶々のはばたき

世界の何処かの午后で、またひとつ、扉が開きました。ココア・ブラウンの古めかしいドアが、ぎぃっと音を立てて、来客を迎えます。 猫塚さんは、瑠璃色の蝶ネクタイを着けています。 何とも鮮やかな色なのに、どうした事でしょう。 ざわざわなゴブラン織みたいにも見えるし、また、すらすら、滑らかな絹の様にも、見えるのでした。 不思議な蝶ネクタイを着けた猫塚さんは、いつもとおんなじに、ぴかっとよく光る銀のポットでお湯を沸かしています。 お湯はカフェのかなめですからにゃ。 そう言われて、まるで夏の海原によく映える、銀の魚鱗の様に、ポットはまたぴかっ、ぴかっ、と嬉しげに光ったのでした。 にゃ。 お客様、いらっしゃいませにゃあ。 三名様でよろしかったですにゃ? にゃあにゃあ。 当店は、初めてですにゃ? いにゃあ、そうにゃにょですよ、最近。 海辺の街に構えたのは、当店も、はじめてでして。 カウンター席から、つるっとした窓硝子に目をやると、絶えず、白く砕け、陽射しにきらきら、宝石の様に輝く波と、地平線まで続く、果てしない青が、ざざん、ざざんと、打ち寄せていました。 にゃあ、ご注文はお決まりかにゃ? ……にゃ、にゃにゃ。 承りましたにゃ〜。 間延びした鳴き声を上げると、猫塚さんは、冷凍庫までささあっ。ぱかり。透明で、細かな飾り模様のある硝子の器に、がっ、と柚子のシャーベットを盛り付けます。 今度は野菜室から胡瓜と、柚子を取り出して、柚子はシャーベットに皮をしゃりしゃり、削り落としました。 先ずは一品目、柚子のさわ〜シャーベット。 きびきびした動きで胡瓜を、とととん。 トースターでチーンと、こんがり焼けた、薄い二枚の食パン。上にはとろけたチーズが乗っています。 ざっ、ざっ。バタにマヨネーズと辛子、黒胡椒を、ぬりぬり。行儀良く、薄くスライスされた胡瓜がずらりと、並びました。 ザクッ!と、ひと口サイズに切ったら、二品目。 軽食にぴったり、胡瓜サンドの出来上がりです。 お次は……? かぱっ、と茶缶の蓋を開けた猫塚さん。 木製の取っ手をやわやわな肉球で持ちながら、小鍋で手早くチャイの茶葉を、牛乳で煮出します。 ちゃっ、ちゃっちゃっ。ちゃっ。 焦げつかない様、くるくる。 木匙で、リズム良くかき回します。 とっときのスパイスをぱたぱたと、振りかけて。 お待たせ致しましたにゃ。 三品目、夏バテに負けにゃいチャイラテ、です。 今日のお客様は三者三様。 でも、ほら。 いつの間にかお客様たちは、自分の時間を過ごしています。 それは、自分だけの時間で。 自分の為の、時間にゃのです。 それを邪魔しちゃあ、猫塚さんは、猫塚さんではありません。 お客様に休んで貰うとは、そう言う事。 此処はねこづかふぇ。ゆったりカフェは、いつも通り。沢山のお客様がいらしても、いつもの世界。いつもの時間を、優しく味わって貰いたい。だから猫塚さんは、猫塚さんである事を、欠かしません。 其れが、ねこづかふぇにゃにょで。 ちょっぴり心の中で、くにゃっ、と微笑んで。 猫塚さんは、そろそろ食べ終わるシャーベットのお客様にと、クラッカーの上に、柚子ジャムを乗せた小皿を、差し入れる準備をし始めます。 猫塚さんは勿論、猫です。だけれど、どんな猫でもあって、どんな猫でもありません。やわやわ肉球ドリップで、貴方の為に珈琲をとぽとぽ淹れる、猫なのです。 世界の何処かの午后。 此処は、誰もが訪れる事が出来る不思議なカフェ。 行き方は色々あるけれど、辿り着けたらちょっぴり嬉しい、そんな場処。 とろとろ、きらり。 ジャムが不適に煌めきました。 ふわあっ。 猫塚さんの蝶ネクタイが、いつの間にか、本物のモルフォ蝶に変わっていたのです。 にゃ。 猫塚さんは前から解っていましたよ、と言う具合に、蝶々を外してやりました。 ふわ、ふわ。蝶々のはばたき。 鱗粉が、きゃらきゃらと、赤ちゃんの笑い声みたいに輝いて、扉がまた、開きます。 もし、青い蝶々を見かけたら、ついていってみて下さいね。まだ、いらっしゃらにゃいにゃあ、って。 猫塚さんが、貴方を待っていますよ。
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