紫陽花色の秘密

1/1
23人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ

紫陽花色の秘密

世界の何処かの午后で、またひとつ、扉が開きました。ねこづかふぇも、どうやら梅雨入り。しとしと、しとしと。ぴちょんぽちょん。雫が連なって、空から落ちて来る音が、何だか可愛く聴こえそう。そんな、優しい午后の物語です。 猫塚さんは、雨雲の隙間に時折見えるお魚とか、海が荒れる前触れの、あの濃い青色、群青色の蝶ネクタイをぴぴっと、着けています。曲がったりしないよう、時々、銀にきらりと光るポットを、鏡がわりにしながらね。 紫陽花の季節ににゃりましたにゃあ。 お客様の街でも、咲いてるにゃ? カウンターに座って、珈琲をのんびり飲んでいたお客様に、やわやわたずねる猫塚さん。窓硝子の外は、しととしとと。細うい細うい、透明な天蚕糸(てぐす)やら、また蜘蛛の糸を全部水晶で拵えたかのような、雨が、つらつら降っています。こんな雨の日の午后は、筆がのるというもの。他の席では、萬年筆をカリカリ、忙しなく動かすお客様も、いらっしゃいます。あっちの席では、クレヨンに色鉛筆。こっちの席は、ちょっぴりハイテクに、アイパッドの上に指を滑らすお客様も。 こんにゃ日は、何かを創りたく、にゃるにょかにゃ? 猫塚さんは、にゃんにゃん、と思いました。にゃにゃっ、と思った所で、気付きます。猫塚さんだって、ちゃっかり、しっかり創っていたと。気付いたのでした。 そういえば、ねこづかふぇを、創っていたにゃ。 今日いらしたお客様に、お出ししたスイーツや、お料理も。ねこづかふぇっていうカフェに、今まさに流れゆく、空気も。思えば、猫塚さんが創り上げたのです。 気付かにゃかった、にゃあ。 そのねこづかふぇで、お客様が穏やかにくつろいで下さっている。ゆったり、ゆるゆる。リラックス。そう思うと、途端に何だか嬉しくって、わくわくして、でもちょっとだけ、むずむず恥ずかしい。そんな気持ちが、猫塚さんの胸いっぱいに、ぽぽっと広がりました。 猫塚さんは、カウンターキッチンの奥に、一旦引っ込んで、そのやわやわな前脚に、一枚のまんまるなレコォドを持って、出て来ました。これは猫塚さんが今イチオシの、そしてとっときの、曲なのです。お店のBGMを流している蓄音器に、かかっていたレコォドを外して、とっときをセットします。ぷつ、さあーー。流れて来たのは……。この物語を読んでいる貴方の、ご想像通りでした。 さあ、ねこづかふぇを始めるにゃ。 お気に入りのBGMを流したなら、勿論、大好きなスイーツが無くちゃ、いけません。 出して来たのは今が旬のさくらんぼ。艶々で、真っ赤っかに熟れたさくらんぼは、まるで宝石みたい。水で洗っただけなのに、大事な宝物を触ってるようです。何を作るの、猫塚さん。 さくらんぼのチーズケーキにゃよ。 それを聞いて、お客様はじゅるり。何故かって、昔っから、珈琲にはチーズケーキがぴったり合うからです。勿論、全ての珈琲にチーズケーキが必ず合うとは限りません。だって、珈琲を淹れる人は星の数ほど居るのですから。その人の淹れる珈琲に合った運命のスイーツが、それぞれあるのです。ある人の珈琲には、どっしりプリンがぴったりだったし、またある人の珈琲には、ナポリタンやカツサンドがぴったりだった、なんてお話もあるのでした。 そうこうしている間に、猫塚さんはチーズケーキの下ごしらえを終わらして、まだ焼かれてない柔らかなチーズケーキの土台に、粒々さくらんぼを、ぽてぽてぽて。埋め込んで行きます。さあて、後は余熱で温まったオーヴンで、ふつふつ焼き上がるのを待つだけです。 ブーンと唸るオーヴンを眺めながら、猫塚さんはふと、思いました。 きっと、珈琲はねこづかふぇで、運命のスイーツはお客様方にゃ。 出会えるとは限らない、でも出会えたら、かっちり歯車が合ったみたいに、ぴかぴか魔法が動き出す。 そうにゃ、ねこづかふぇは猫塚だけで、創れた訳じゃにゃいにゃ。 お客様が居たから、ねこづかふぇは、ねこづかふぇにゃにょにゃあ。 じんわり、猫塚さんのおっきなアーモンド型の睛から、梅雨どきに相応しい、透き通った雫が落ちます。でも、その事を、猫塚さんはお客様方に悟らせません。だって、きっと心配されちゃいますからね。だから、この物語を読む貴方と、猫塚さんだけの、秘密です。 紫陽花色の、秘密にゃ。 おや?猫塚さん。この漂って来る、甘〜い良い匂いは、どうやら焼き上がったみたいですよ? にゃにゃっ!解っていますにゃっ! 猫塚さんは、前脚をいつもみたいに巧く使って、ぐしぐし。紫陽花色の秘密の、証拠隠滅です。 さくらんぼのチーズケーキ、お待たせ致しましたにゃっ。 オーヴンから顔を覗かせた、華やかなチーズケーキに、梅雨のじめじめも吹っ飛びます。ぱっ、と雨に濡れた傘を、広げた時みたい。お客様の顔はにっこり、雨降りなのにカラッと晴れやかです。 珈琲は、只今お持ち致しますにょで。 つられて猫塚さんも、何だかにゃっこり。猫塚さんは勿論、猫です。だけれど、どんな猫でもあって、どんな猫でもありません。やわやわ肉球で、貴方の為に、珈琲を改めてとぽとぽ淹れる、猫なのです。ご希望なら、紅茶もね。 此処はねこづかふぇ。 店主の知らない内に、店主や、お客様や、お店に、魔法がきらきらする、場処。世界の何処かの午后で、誰もが訪れる事が出来る不思議なカフェ。行き方は色々あるけれど、辿り着けても、辿り着けなくても、貴方を待っている、喫茶店。 こんにゃ午后は、ねこづかふぇに来ませんかにゃ? 相変わらず、しとしと降る雨を、止める事は出来ないけれど、貴方の心の雨は、きっと止む筈です。目印は、紫陽花色の秘密。貴方の好きな色の傘が、ドレスコード。きっとねこづかふぇの傘立てに、沢山の紫陽花が咲きます。その紫陽花は、黄色とか、透明だったり、するのでした。 こんにゃ紫陽花があっても、良いのにゃ。 だって、こんなにも立派に、咲き誇ってるのだから。猫塚さんは、ふわりふわり、優しい白い湯気を引き連れて、貴方に照れ臭そうに、微笑みかけます。 晴れ間はきっと、直ぐそこですにゃ。 雲間から覗く久しぶりの陽射しは、まるで一枚の絵画のように、ねこづかふぇを、おおらかに照らしていました。 7ce38a7c-a2d9-47f8-b84d-e026fee1c189
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!