春を抱き 夢うつつ

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 春の香りに包まれる桜並木の下、人々が集う。    芸者に杯を差し出し、酒を呷る男。愛おしげに木に寄りかかる洋装の女。切り株に座り込み、枝で地面をつつく狐の面を被った子供。長椅子に腰掛け、無言で桜を見つめる老夫婦。数知れないその光景は、同じ場にいながら互いに相容れぬもののようだった。    一人、それを横目に歩く。道は薄桃色に染まり、歩を進める度にしっとりとした花片が足をくすぐる。ほどなくしてぼんやりと浮かぶ鳥居をくぐり、古めかしいしめ縄が巻かれている老木に辿りついた。白銀の月に照らされ一際美しく咲き誇り、一陣の風に枝もたわわに艶めく花々を揺らして散らす。  袂には濃紺の着物を着た痩身長躯の男が背を向けて立っていた。足元は桜の花びらが積もっている。地を踏むかすかな物音に、男はおもむろに振り返った。その視線がこちらに定まると静かに微笑む。その目はうつろで、それでいて吸い込まれそうだった。    導かれるように男のほうへ足を向ける。触れられそうな距離に思わず手を着物の裾へと伸ばすと音もなく弾けた。花吹雪に手をかざし、唇をかみしめ目を細める。  男の姿は、もうない。 「――…」  見下ろしている木々の間から白い月が見えた。地に沈み込むような感触に、自分が仰向けになっていることに気づく。  ふいに淡い光を纏った花びらが一片、ゆらりゆらりと手のひらに落ちて溶け込むように消えた。半身を起し、その手を掲げて息を吹きかけるといくつもの桜の花びらが空を舞う。    私はそれをただぼんやりと眺めた。
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