黒と緑1 [8]

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 保健室に先生がいなかったので、勝手に消毒して包帯を巻いた。  寮に戻る途中、ピアノの音が聞こえてきた。聞き入って、ついつい足が音楽室の方に向いてしまう。部活も終わって、生徒たちはいないはずだ。  とらえどころのない、不思議な曲だった。不気味、と感じるひとが多いかもしれない。でも何故か、その音色に惹かれてしまう。そして不意に、まるでずっと闇の中にいたひとが一瞬だけ光を見たときのような、優しい旋律が差し挟まれる。音が途切れたタイミングで、 「玄咲さん?」  声をかけられた。  ピアノを弾いていたのは、彩波(いろは)先生だった。 「どうしたの? こんな時間に」 「保健室に用があって」 「あら、大丈夫? 熱でもあるの?」 「いえ。ちょっと指をガラスで切っちゃっただけです。それより先生、今の曲って何ですか?」 「胎児の干物」 「えっ?」  何か、聞き間違えたかと思った。でも先生は、穏やかな笑みを崩さない。 「サティの曲よ」 「ああ……サティの曲名って、変なの多いですもんね。でもこれは知りませんでした。ジムノペディとかグノシエンヌくらいしか」 「あとこれとかね」  そう言って先生は、Je te veuxを弾き始めた。  先生にはすべて、見透かされているような気がした。 「翠子さんとは上手くやれてる?」  先生は鍵盤を見ないまま、こちらを向いて話しかけてくる。けれどそんな先生と何故か目を合わすことができず、さっきから、なめらかに動く先生の指ばかり見ている。  愛撫するみたいな動き。  ピアノが、先生に愛されている。だから先生も、ピアノに愛されている。  羨ましい、と、思う。  ピアノに愛されている先生が? 先生に愛されているピアノが?  感情の整理がつかないまま、「はい、上手くやれています」と応える。 「大変な役割を任せちゃって申し訳ないと思っているの。でもあなたでないと、きっと他の子だと駄目だと思う。どうかあなたの《ギフト》で、翠子さんをよい方に導いてあげてね」 「翠子さんは、大丈夫です」  はっきりと言いきりすぎたかもしれない。先生はちょっとだけ意外そうな表情をした。だから、「何かあったらすぐにご報告します」と付け加えた。  玄咲が音楽室から出ると、先生はまた、曲名の分からない不思議な曲を弾き始めた。
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