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彼、浮気してる。
わたしは初め、そう思った。
彼は乗馬サークルの先輩だった。わたしを含めるその年の新入生に、丁寧な口調で活動内容を説明する彼。陽だまりみたいな柔らかい笑顔に一瞬でノックアウトされたわたしは、彼を他の女に取られまいとすぐに告白し、付き合った。
それから一年。彼はわたしを尊重し、大切に扱ってくれるし、性生活だって満足できるものだ。彼に不満はない。
だけど、何かがおかしい。
微妙な違和感は、夜に感じた。
わたしに触れる彼の手つきが、昼間のそれとは違う。綿毛を扱うように慎重な手つきが昼間の彼だとしたら、夜の彼の手つきは、肉を貪り食うように荒々しい。
本能がむき出しになっている瞬間は、理性などすっ飛んでいるはずだし、どんなに穏やかな人でも、その瞬間は変わってしまうのかもしれない。そう思ってみても、どこか納得できない。
夜の彼は行為が終わると、わたしに背を向けて眠る。もう充分だ、これ以上は顔もみたくない、と言うように。会話もおざなりになる。わたしが彼の浮気を疑ったのは、そのせいだ。
もしかして、彼の心はわたしからとっくに離れていて、わたしはいわゆるセフレに過ぎないのでは?
彼はわたしを自宅に招いてくれない。会うのはもっぱら、私の部屋。どうして? それはきっと、彼には他に本命がいて、その本命が彼の部屋を出入りしてるからに違いない。
そういう心配は、けれど、昼になると霧散する。昼の彼は、やはり私に恋してるとしか考えられない甘い彼だった。
昼間、彼がわたしに優しいのは、ぜんぶ夜の行為へのお膳立て?
そう疑ったりもした。
けれど、昼間の彼からそういった計算高さは感じられない。
昼間の彼と、夜の彼。
二人はまるで違う人間みたい。
昼間は右利きの彼が、夜は左利きになること。この法則を発見したわたしは、ある種の確信を持って、予告なしに彼のアパートを訪ねた。場所は、彼の免許証を盗み見て確認した。
わたしが愛してやまない、薄く、それでいて整った顔がふたつ。
私が訪ねたアパートの部屋に、「彼」は二人いた。
彼は双子だった。
気づいちゃったか。結構早かったな。いやいや、一年も、よく隠し通せたほうだと思うよ。
顔、身長、体形、服装、髪型、声、スローなしゃべり方に至るまで、二人はまったく同じだ。同じ人間が、二人いるとしか思えない。いま、どちらがしゃべったのか、それすらもわからない。
いやいや、ぼくらの思考はそれぞれ独立しているし、リンクもしていない。一卵性のすごく似てる双子ってだけで、ぼくらは別々の人間だよ。
ぼくが右利きで、彼が左利き? よく気づいたね。気を付けていたはずなんだけど。そう、ぼくらの違いはそれくらいのものだ。
知ってる? 双子で利き手が違うっていうのは、けっこうオーソドックスなことなんだ。なんでも、ひとつの卵子が分裂するとき、ミラー状に分かれるかららしい。
ぼくと彼は、鏡合わせの存在ってこと。
ぼくが昼で、彼が夜。
最初に君を好きになったのはぼくだ。昼のぼく。いや、夜のぼくだ。どうだったか。どちらが先か、そんなのは些細な違いに過ぎない。だって、どうせぼくらは同じものを好きになると決まってるのだから。それもそうだ。
二人が同じものを好きになる。食べ物も、飲み物も、オモチャも、服も。二つ買えるものならいい。あるいは、半分こできるものならいい。だけど、そうできないものは?
たとえばそう、君とか。
君は一人しかいないし、半分にちぎるなんて、わあ、グロイ。
血みどろの君なんて、欲しくない。
ぼくも彼も、完全体の君が欲しい。どちらも譲る気はない。かといって、取り合う気もない。争いは、絶対にいい結果を生まないからね。じゃあ、片方が我慢する? ダメダメ。争うよりも、悲惨な結果になるよ。
なぜかって?
君は、『あらしのよるに』という物語を知ってる? そう、嵐の夜に出会った狼とヤギの友情の物語だ。「食べる者」と、「食べられる者」。絶対に仲良くなれないはずの二人が友達になる、ステキなお話だよね。だけど、悲しくもある。二人はお互いが大事で、尊重するあまり、我慢を重ね、関係が壊れてしまう。ヤギのことがより好きだった、狼の死によってね。狼は、ヤギを食べるべきだったんだ。もしくは、永遠に離れるべきだった。
何が言いたいのかって? つまり、我慢はよくないってこと。お互い我慢してると、どちらかが限界に達して死んでしまう。
たとえば、ぼくが君を諦め、彼に譲ったとする。彼と君は親密に過ごすだろう。そんな二人の姿を見て、ぼくはストレスがたまる。精神を病んで、結果、自殺してしまうかもしれない。悲惨だよね。そうならないように、互いの利益を調整し、より良い着地点を見つけなきゃならない。
ここに美味しそうなオレンジがひとつある。このオレンジを、二人で分けるには?
一方にすべてを譲る。半分こする。いずれもできないとしたら。
さて、どうしようか。
ぼくと彼、お互いの利益になるWIN・WINの着地点を目指すわけだけど。
ああ、知ってた? そう、これは有名な『ハーバード交渉術』から持ってきた例えだよ。例題を知っていたということは、正解の答えも知っているかな?
二人の姉妹がいました。二人はひとつのオレンジを巡り、ケンカになりました。結局、取り分は半分ずつということで折り合いがつき、オレンジを真っ二つにして分けました。さあ、この分けたオレンジ。姉は中身を食べ、皮を捨てた一方で、妹は中身を捨て、皮をマーマレードにしました。姉はオレンジの中身を欲し、妹は皮のみを欲していたのです。彼女たちの目的は、それぞれ違う場所にあった。ケンカする必要は、はじめからなかったということです。
ある結果を『交渉』で手に入れようとする場合は、自分の目的だけじゃなく、相手の目的まで考慮しないと、双方損をするっていう良い例えだね。
ぼくと彼も、この『ハーバード流交渉術』にのっとって『交渉』をしたんだ。
その結果、この姉妹のように、ケンカすることなく互いに利益を得られることがわかった。
ぼくらの目的は、それぞれ別の場所にあったんだ。
つまり、ぼくは君の心が欲しくて、彼は君の肉体が欲しかった。
それぞれの目的の達成は、共存できる。ケンカせず、ストレスフリーに、君を分け合うことができるってわけだ。
君の心が欲しかったのは、昼のぼく。
君の肉体が欲しかったのは、夜のぼく。
昼のぼくはなんとか君の心を癒し、自分の虜にさせよう頑張る。夜の彼はどうにか君の体を満足させ、ひいては自分の性欲を満足させようと頑張る。
時間、労力、お金。ぼくと彼は、それぞれ百パーセントの力を、それぞれの目的を達成するために費やすわけだから、君は単純計算で二百パーセントの愛情を受け取ってることになる。普通の人の、倍は得してるよね。
ぼくと彼、そして君を含めWIN・WINになれる、これは素晴らしい案だった。
つまり、と私は考える。
昼は彼、夜は彼。彼らは交代でわたしの前に現れ、一人の人間として振る舞っていたということだ。
わたしは彼らに、まんまと騙されていたのだ。一年も。
彼らには、悪びれる様子がまったくなかった。あれこれこねくりまわしていた理屈も、言い訳ではなく、自慢。ぼくらはこんなに素晴らしいことを思いついたんだ。ねぇ、すごいでしょ。ゼミのレポート発表みたいなものだ。わたしに秘密がバレたというのに、焦る気配はなく、わたしとの関係がこれでおしまいになるなんて、微塵も考えていない。
そして、わたしもまた、「彼」との関係をこれで終わらせようなどとは、考えていない。
騙されていたと知って、たしかに落胆した。けれどそれは、「もっと早く、気づくべきだった」という後悔から来ているもので、ショックからでは、断じてない。
おかげで、時間を無駄にしてしまった。一年も。
わたしは電話をかけた。ワンコールもせずに、相手が出る。すぐに「彼」のアパートへ来るように伝えた。
五分後。彼女は現れた。
わたしと寸分違わぬ同じ顔、同じ高さの身長、体形、服装、髪型、声、少々そっけないしゃべり方に至るまで、まったく同じな彼女。わたしの双子の片割れ。鏡合わせの彼女。
昼がわたしで、夜が彼女。
彼と彼。わたしと彼女。向き合い、わたしは告白した。
「わたしはあなたの心が欲しい。そして、彼女はあなたの肉体が欲しいの」
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