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 ルイスが狼の血を持つ彼と出会ったのは、こちらの国に引っ越して来てから間も無くの事だった。  お決まりの赤いケープで顔や体を隠した状態、かつ、人気の無い場所限定で、という条件付きではあるが、ようやく一人で外を出歩けるようになった頃だ。  その日は雲ひとつない小春日和の心地好い日で、森の中を散歩している時に偶然例の花畑を見付けた。  ルイスは植物にあまり興味を持っていなかったのだが、その美しい光景に幼いながらも心を震わせずにはいられなかった。  花畑の真ん中に座って、いつだか母親から習った花冠の作り方を思い出しながら丁寧に編んでいく。母親に持って帰ったら喜ぶかなと思ったのだ。  洋裁が趣味の母親を持つだけあって、ルイスはなかなかに手先が器用だった。  すいすいと繋がっていく花の帯に夢中になっていると、春の嵐という言葉が思い出される程の突風が駆け抜け、静かに揺れていた草木を一斉にざわめかせた。  被っていたフードを攫われ、太陽の光を浴びてきらきらと輝く白髪が激しく舞い踊る。  ようやく風が収まり顔を上げてみれば、先程まで誰も居なかったはずの花畑の中に小さな人影が立ち尽くしていた。  思わず悲鳴を吐き出してしまいそうになり、息と共に飲み込んだ。  ぼろぼろの衣服を纏い、ルイスと同じように頭をフードで隠した痩せぎすなその人物は、恐らくはまだ若い少年ではないかと感じた。  フードの影からわずかに見えた吊り気味の大きな鈍色の目は、丸々と見開かれた状態でルイスの姿を凝視していた。  ルイスは自分の白い髪と赤い目が剥き出しになっている事を思い出し、慌ててフードを被り直す。  完成間近だった花の冠を放り投げ、脇目も振らずにその場から逃げ出した。 「あっ、待って!」  背後から制止する声が聞こえたが、ルイスの足はいっそう早く地面を蹴る。 「待ってってば!」 「…………っ!?」  がむしゃらに走って花畑から大分離れた筈なのに、先程の声がまだ聞こえる。ルイスは思わず後ろを振り返った。  追ってくる少年の姿を目視するよりも早く、背中に何かが勢い良くぶつかって、その衝撃で転がるように地面に倒れる。  俯せで倒れたルイスの背中には、先程の少年がしっかりと張り付いていた。  ルイスの体にしがみつく細腕は見た目以上に力強く、決して逃がさないという意志が伝わって来るようだった。  のしかかっている体自体は驚くほど軽く、力の限り抵抗すれば突き飛ばせるはずなのだが、恐怖で体が固まってしまい動けない。  またあの頃みたいに、耳を塞ぎたくなるような言葉を吐き付けられるのだろうか。化け物だと殴られるのかもしれない。このまま拐われるかも。  辛い記憶が蘇って来て、ルイスの目の縁にじわりと涙の粒が浮き上がる。  しかし、襲撃者の口から出た言葉は予想もしないものだった。 「ねぇっ、君、うさぎさんでしょ!?」 「…………えっ?」  体を勢い良くひっくり返され、謎の少年と向き合う形になる。  興奮の滲んだ明るい声でそう問われたが、どういう意味なのかが分からず、ルイスはぽかんと口を開けて少年の顔を見つめた。  少年は自分の薄汚れたフードを掴むと、おもむろに脱ぎ去る。  柔らかな褐色の肌が露わになり、黒ともグレーとも言い難い絶妙な色合いの髪が風に撫でられふわりと揺れる。  そして頭のてっぺんには……、犬のような耳がふたつ、ぴょこんと立っていた。 「おれはね、オオカミだよ! ほら、尻尾もあるよ!」  そう言って少年が背を向けると、腰と臀部の丁度中間辺りから生えたもふもふの尻尾がルイスの目前で振られる。 「ねっ、君もおれと一緒なんでしょ? うさぎさんなんでしょ?」  地面に尻もちを付いたまま、その奇妙な姿を呆然と見つめるルイスに対し、少年は再び嬉しそうに尋ねてくる。  理解が追い付かないルイスは返す言葉が何も思い浮かばず、ただぎこちなく首を横に振るしか出来なかった。 「そっか……、うさぎさんじゃなかったんだ……」  二人並んで木陰に腰を下ろし落ち着きが戻って来た所で、ルイスはようやく自分が人間であると告げる事が出来た。  自称狼少年の落ち込んだ声のトーンに比例するように、先程までぴんと立っていた両耳がふにゃりと力なく後ろに倒れた。尻尾も、地面の上で萎れている。  耳も尻尾も、本当に、本物のようだ。  遠慮も忘れてまじまじとその姿を観察していると、不意に顔を上げた少年と視線がぶつかり、慌てて目を逸らした。  今度は少年がルイスを観察するように、赤いフードの下にある白い横顔をじっと見つめてくる。 「こんなに真っ白な人間、おれ初めて見た」 「…………っ」  気にしている事をずばりと言われ、眉間に深い縦皺が刻まれる。 「……そうだよっ、俺は化け物なんだよっ」  半ばヤケクソ気味に吐き捨てると、少年はきょとんとした様子で首を傾げた。 「どうして? 白い生き物なんて沢山いるよ? うさぎでしょ、ヤギでしょ、犬や猫にも白いのがいるよ。あっ、シロクマって知ってる? 凄く大きくて強いんだって」 「そ、そうだけど……、人間の中にはほとんどいないし……、こんなの気持ち悪いだろっ」 「えぇ……、どこが気持ち悪いの? 真っ白で綺麗だよ。目もサクランボみたいで美味しそう」 「美味しそうって……」  ルイスはフードを更に深く被り、顔が見えないように俯いた。  気味悪がられるのではなく、あからさまに同情されるのではなく、それがどうしたのと言わんばかりにあっけらかんと返されたのは初めてで、どういう表情をしたら良いのか分からなかった。  喉の奥がうずうずとして、気を抜けば口元が勝手に笑みを形作ってしまう。  反面、瞳の奥から涙が込み上げて来そうにもなる。 「それを言うなら、君よりもおれの方がずっと変だし、化け物だよ」  膝を抱えて呟く少年に、ルイスは言葉を失った。  自分の事ばかりで察する余裕が無かったが、彼もまた、周りとは違う自身の体に激しい苦悩を抱いているようだった。  確かにその姿に驚きはしたが、化け物だなんて思いもしなかった。  二人の周りを気まずい沈黙が包む。  ルイスは膝の上に置いた指先をじっと見つめながら、口の中でごにょごにょと言葉を作った。 「…………、い、良いじゃん、ふわふわしてて」  気の利いた言葉が思い浮かばず、そんな中身の無い一言しか出て来なかったが、狼の彼は驚いたように目を丸め、次の瞬間にはとろけたような笑顔を見せた。  少年が照れくさそうに、有難う、と笑うものだから、ルイスも何だか気恥ずかしくなって落ち着きなく視線を泳がせた。  それ以来、狼の少年とは良く顔を合わせるようになった。  会おうと約束をした事は一度も無かったが、ルイスがたまに外に出ると、待ってましたと言わんばかりに森の中から姿を現す。狼の嗅覚を持った彼には、ルイスの匂いが分かるらしい。  名前も、年齢も、どこに住んでいるのかも聞かずじまいだが、彼がどういう種族なのかは、祖母宅にある本の中から偶然見つける事が出来た。  本来ならば有り得ない、獣と人間の混血児。  その不可思議な存在は一昔前までは稀に発見されていたそうだが、ここ百年ほどは一人も見つかっていないという。  近年になって彼らのような存在が見つからなくなったのは、ほとんどが絶滅してしまったのか、上手に身を潜めているのか。  もしくは、その存在が公にならないよう秘し隠している人間達がいるのかもしれない。  彼らを好奇の目から守る為という優しい隠匿ならば良いのだが……。  獣の血を受け継いだ人間は公に出来ない場所で高値で取り引きされていて、そこに売られた者達は総じて悲惨な最期を迎えていると本に書かれていた。  見世物小屋で虐待による死亡……、生態解明の為の実験中に死亡……、大富豪の屋敷から剥製が見つかる……等、文字を追うだけで気分が悪くなりそうだった。  だからこそ、ルイスを白兎の混血児だと勘違いした狼少年は、生きている仲間が居たのだと思いあんなに喜んでいたのだろう。  少年が常に危機に晒されている事を知ってしまったルイスは、いつも全力でじゃれついてくる狼を鬱陶しく思いながらも、彼の元気な姿を見る度に密かに胸を撫で下ろしていたのだった。 「う……、ん……」  体を撫でる風に肌寒さを感じ、ルイスは身を震わせながら重い瞼を開く。  ぼんやりとした視界に青と橙の混じり始めた空が映り、慌てて体を起こした。  祖母の家に届け物をする途中で花を摘んでいて……、あたたかな木漏れ日の心地良さに耐えきれず途中で木陰に寝転んだのは覚えている。  ……どうやら、そのまま眠ってしまったようだ。  狼の姿はどこにも無い。先に帰ってしまったのだろう。  起こしてくれればよいものの、と、不満を感じながら立ち上がると、一枚の布が体からひらりと滑り落ちた。  手に取ってみれば、今日狼が羽織っていた上着だった。ブランケットがわりにルイスの体に被せていったのかもしれない。 「……馬鹿、あんま服持ってないくせに」  ルイスは一人呟くと、地面に落ちた狼の上着を綺麗に叩いてから腕に引っ掛ける。  片手にはバスケット、もう片方の、狼がくれた歪なブレスレットがはめられた手には花の束を持って、夕暮色に染まり始めた森の中を急ぎ足で通り抜けた。 「ばぁちゃん、ごめん、遅くなった」  こじんまりとしたルイスの家より更に一回りは小さい祖母の家は、花畑から歩いて十五分ほどの距離にあったが、早足で向かったおかげでそれよりも早く着く事が出来た。  玄関の扉を開けてみると部屋中の電気が消えていて、あれ?と首を傾げる。  カーテンの締め切られた寝室を覗いてみれば祖母のベッドの毛布がふっくらと盛り上がっており、そこに横になっているのだという事が分かった。  こんな時間に寝ているのか、と思ったが、最近祖母の体調が悪いらしいと言っていた母親の言葉を思い出す。 「ばぁちゃん、大丈夫?」  寝室の外から控え目に声をかけるが、返事は無い。代わりに、ルイスの声に反応するように毛布の膨らみがもぞもぞと動いた。 「花摘んで来たからさ、そこら辺に飾っておくな」  一方的に話し掛け、寝室を離れる。  台所の戸棚に使われていない花瓶が入っている事を知っていたので、それに花を挿し、バスケットや狼の上着と共にテーブルの上に置いてから再び祖母の様子を見に戻った。  ばぁちゃん、と呼んでも、相変わらず顔も見せてくれなくて不安になる。そんなに具合が悪いのだろうか。  ルイスは薄暗い寝室に入ると、祖母の枕元に立ち顔を覗きこもうとした、……が。 「……ん?」  頭まで被った毛布の下から、見慣れないような見慣れたような毛に包まれた何かの先端がふたつ、はみ出している。  ルイスがそれに触れれば、くすぐったそうにぴくぴくと反応を示した。  更には、それを隠そうとしたのか、布団を引き上げようと表に出て来た手は皺ひとつ無くすらりとしていて、とても老人のものとは思えない。  加えて、美白が自慢のはずの祖母の肌が飴色に染まっているとなれば、おのずとその正体を予想する事が出来た。 「おい、こら」  ベッド脇のナイトテーブルに置かれたランプを点灯させてから、毛布を無理矢理引き剥がす。  あっけなく、中に潜んでいた侵入者が姿を現した。 「わぁっ、見ちゃだめ!」  身を隠していた殻を取り上げられた狼は、不満そうな、それでいてどこか悔しそうな表情をして体を起こした。  ベッドの上に尻を付いたまま、むっ、と唇を尖らせる。 「せっかくびっくりさせようと思ったのに!」 「あのなぁ……、で、ばぁちゃんは?」 「今日は体調が良いからって、さっき散歩に出掛けたよ。おれ留守番頼まれたんだぁ」  狼は、偉いでしょ、とばかりに顎を上げ、どん、と胸を叩く。  最初はルイス経由で知り合った祖母と狼だったが、今ではルイス抜きでも仲良くやっている。  下手をすれば、孫であるルイスよりも狼の方がこの家を訪れる頻度が多いかもしれない。 「でも、ちょっとはびっくりしたでしょ?」 「あー……、はいはい、したした」 「やったぁ!」  狼はベッドから飛び下りると、その勢いのままにルイスの体に抱きついた。  頬にすりすりと頭を擦り付けるので、その上にある獣耳が顔を撫でてくすぐったい。  本体の感情が如実に現れる尻尾は、千切れてしまわないか心配になるほどにぶんぶんと暴れ回っていた。  いつまでも離れようとしない狼の肩を掴み、やんわりと押し返す。  しかし狼は離れるどころか、ルイスの体にしがみつく手にいっそう力を込めた。 「もう……、いい加減に……っ」  今度は強めに引き離そうとして、狼の様子がいつもと違う事に気付いた。  こうやって抱きつかれるのはいつもの事なのだが、今回はいつも以上に体を密着させ、擦り付けるように体を小さく揺らしている。  ルイスの首筋や髪の毛の匂いをしきりに嗅ぎ続け、やたらと荒い息遣いを繰り返す。  毛布の中にこもっていたから熱いのだろうと思っていた狼の体温は、いまだに冷める気配がなかった。  太腿に狼の下半身が当たり、雄である事を証明するその部分がほのかに膨らんでいるのに気付けば、さすがにもう気の所為では片付けられない。 「おいっ、ちょっ……!」  狼の肩を掴み必死に腕を突っ張るが、体を縫い合わされているのかと疑いたくなるほど全く離れない。  毎度毎度、こんな簡単に折れてしまいそうな腕に何故そこまでの力があるのかと不思議だったが、もしかして、引き篭ってばかりでろくに体を鍛えていない自分が貧弱なのだろうかと思い当たりルイスに衝撃が走る。  己の推測にひどく心が傷付いたが、今は落ち込んでいる場合では無いと自らを奮起させた。 「お、おい、何なんだよ……っ、しっかりしろ……!」  気を強く持ち、すぐ目前にある狼の頭を睨み付ける。  その時、ついと顔を上げた狼と視線がぶつかり心臓が大きく跳ねた。  熱に浮かされた灰色の瞳がうるうると揺れていて、何かを堪えるように苦しげに顰められた眉と相まってひどく色っぽく見えた。  褐色の肌に滲んでいても分かるほどに赤らんだ頬の愛らしさには、思わず触れたくなった。 「お、おれ、最近おかしくて……、赤ずきんくんといると、どきどきして、体がむずむずして変……っ、好き、赤ずきんくん、大好き……っ」  荒々しい吐息が溢れる唇の隙間から、今まで聞いた事がないようなしおらしい声が絞り出された。  ぴたりと重なった体から相手の早い心音と燃えるような熱度が伝わって来て、ルイスの鼓動と体温もそれにつられて変化していく。  息が苦しい。  体の内側をぐちゃぐちゃに掻き回されている気分になる。  生まれてからこれまで体験した事の無い体の異変が恐ろしくて、ルイスは無意識のうちに狼の体を力任せに突き飛ばしてしまった。 「はっ、離れろ、って……! 気持ち悪いんだよ……っ!」  ベッドの上に尻餅を付き呆然としていた狼の表情が、みるみるうちに崩れていく。 「…………っ、う、うぅ……っ」  狼は何度も何度も目元を擦り拭う。  小さな拳の下から涙の粒が落ちていくのが見える度、錆び付いた刃に貫かれるかのような痛みがルイスの胸に広がった。  ……あぁ、いつも、いつも、自分はどうして、言ってしまってから後悔するのだ。  本当は、こう言いたかったのに。  本当は、そんな事言うつもりじゃなかったのに。  心が急き立てられるのとは裏腹に、ルイスは魂が抜けたように立ち尽くしている事しか出来なかった。
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