《第一章》 カッパーロ

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《第一章》 カッパーロ

季節は4月の初旬。 新しい制服に身を包んだ女子中学生が2人、連れだって登校している。 その制服はもう何十年もデザインが一緒で、同じ中学出身の私も昔着ていたのを思い出した。 そう言えば今日は入学式だったな。 感慨深く中学生達を見つめながら、自動車のウィンドウを下げた。 嗅ぎ慣れた故郷の空気は、相変わらず澄んでいて心地いい。 清涼な空気を胸一杯吸い込むと、少し強めにアクセルを踏み込んだ。 運転している黒い軽自動車は、石原家にやって来てもう10年経つ。 急な山道を登り、息切れを起こして速度が緩くなるという現象にも、もう慣れっこだ。 目指す場所は麓から山道に入り、ヘアピンカーブを3つ超えた先にある。 そう、かなりの山奥だ。 車のハンドルを華麗に切り返し、こなれたテクニックで運転していくと、やがて開けた場所に出る。 そこには大きな白い看板があって、こう書かれてあった。 《浅川池↓》 誰かにイタズラされたのか、その矢印の指す先はどう見ても側溝。 私は車を止め、看板の角度を変えた。 正しくなった看板の矢印の先には、少し干上がってしまった池がある。 私が小さいときは、まだ深い緑で神秘的だった浅川池。 でも今は灰色で地面の泥が見えている状態だ。 その池を横目に見ながら、可愛いログハウス風の建物を目指し少し奥へと車を走らせる。 建物の名は「純喫茶カッパーロ」。 ここは私、石原サユリ(29)の実家であり、今日から職場になるのだ。 2月の初めに父が倒れた。 急いで帰省したけど時既に遅く、父は目覚めることなくこの世を去った。 大手の飲料メーカーに勤めていた父は、長年の夢であった喫茶店経営を諦められず、出身地である四国の浅川村(人口約1000人の過疎地)へ戻り念願の喫茶店をオープンさせた。 当初、こんな田舎で喫茶店なんて流行るわけない!と陰口を叩かれもした。 だが! 喫茶店の前にある「浅川池」で、カッパの目撃情報が拡散されるや否や、観光客がどっと押し寄せたのだ。 (かね)てよりカッパ伝説のある池は、神秘的でいかにも未確認生物がいそうな雰囲気がある。 その後押しもあり、父の店「純喫茶カッパーロ 」はそこそこ繁盛していた。 因みに、この変な店の名前もカッパ伝説にあやかってつけたらしい。 聞いた話によると江戸時代、地主だった石原仁左衛門(うちの先祖)が日照り続きの浅川村に雨を降らせるべく、池のカッパと交渉したとかしないとか。 まぁ、俄には信じられない話なんだけど、我が石原家にはその時の契約書が残っている、という嘘臭い話を祖父から聞かされたことがあった。 その後、カッパブームが過ぎ去っても、近所の常連さんや、自家焙煎のコーヒーの味を求めてくるお客さんは離れなかった。 本当にありがたい。 その稼ぎで家族3人が慎ましやかに生活出来たし、私が大学へ行くことが叶ったのだから。 父の死後、母はショックで入院してしまった。 そんな母を一人には出来ず、私は働いていた会社を辞め、この故郷に帰ってきたのだった。 両親が経営していた「純喫茶カッパーロ」を継ぐために。 幸い料理の腕には自信があり、幼い頃から父の焙煎技術や、コーヒーの淹れ方を学んでいたから、この決定に何の不安もなかった。 ただ一つ、不安に思うことがあるとすれば、29歳になる私にもう出会いは訪れない……ということだ。 過疎まっしぐらの田舎では、老人か既婚者しかいない。 つまり、私はこの時点で独身決定!ということだ。 そんな悲しい想像をしながら、車を駐車場に停め、降りて一度入り口の鍵を開けに行く。 次に荷室に置いた食材入りのダンボールを両手で抱え、お尻でヨイショと入口を開けながら中に入った。 ギィーー……カランコロン。 いつもの音が鳴るのを聞き、ダンボールをカウンターに置く。 「ふぅ。さて、準備しますか」 独り言を呟くと、冷蔵庫に食材を詰めて、早速取りかかった。 初日の今日は昼からの営業だったので、明日のランチであるチキン南蛮の仕込みを済ませておく。 次は出るかどうかわからない、軽食の用意をした。 一人では出来ることが限られるから、モーニング、ランチ以外の軽食はホットケーキセットと、サンドイッチセット、ピザトーストセット、ケーキセットの4つのみ。 ケーキは毎日の日替わりで、今日は時間がなかったのでベイクドチーズケーキになっている。 これならわりと簡単に出来るからだ。 そしてメインのコーヒーは、昨日一度来て豆を焙煎しておいたので、どんなオーダーにも十分対応出来る。 粗方準備を終えると、表に営業中の看板を出し、店内の黒板に日替わりケーキと日替わりコーヒーを書き出す。 そしてフラスコに水を入れランプに火をつけた。 常に温度は一定に、いつでも出せるようにしておく。 それから店内音楽を流し、一息ついてカウンターの椅子に腰かけた。 そこは父のお気に入りの場所で、お客さんがいないとき、いつも座って新聞を読んでいた。 「誰かが来たのを一番最初に気付けるから都合がいいんだよ」と笑っていたっけ。 それに浅川池もよく見えるのだ。 父のお気に入りの席から見える浅川池は、昔はとても美しかった。 一体どうして干上がってしまったんだろう。 気候変動のせい?昔より雨が少なくなったからかな? なんて考えてみたけど、私にその理由がわかるはずもない。 やがて考えるのを諦めた私の目に、最初のお客さんが写った。
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