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――吐き気を催す強烈な臭気に、薄く目を開く。
気がつくと、ヴァルは赤黒い空間に立ち尽くしていた。
床も壁も天井も、不気味な赤一色で塗り潰されており、圧迫感と息苦しさを覚える。
少しでも呼吸を楽にしたくて上を向けば、不意に足元が何かで濡れた。
何気なく視線を落とせば、みるみるうちに透明な液体が靴の中まで浸食していく。
いや、透明ではない。
床と同じ色をしているから、無色透明だと目が錯覚してしまっただけだ。
じわじわと足を濡らしていく感触と同時に、錆に似た臭いが鼻につき、思わず一歩後ずさる。
この液体は――血だ。
床に広がっているものの正体を認識した瞬間、あちこちから断末魔が聞こえ、壁に反響する。
その音を耳にするだけで、脳髄が締めつけられていくようだ。
その場に存在する全てを振り切るように走り出せば、その先には柔らかな日差しが降り注ぐ、コスモス畑が広がっていた。
つい先刻まで目にしていた光景とは似ても似つかない、穏やかな景色に、かえって気味が悪くなる。
赤やピンク、黄色にオレンジ、白の花弁がゆらゆらと風に吹かれている様は、さながらこちらに来いと誘いかけているみたいだ。
そんなコスモスの群れを眺めているうちに、自然と引き寄せられるようにふらふらと歩み寄る。
すると、突然目の前に小さな少女が飛び出してきた。
こちらに背を向けて両手を大きく広げ、あたかもヴァルを守ろうとしているようだ。
さらさらと揺れる長い銀髪と、華奢な肢体、清廉な純白のブラウスに黒のハイウエストのスカートという組み合わせに、どくりと心臓が嫌な音を立てる。
「……や、めろ……」
唇の隙間から漏れ出てきたのは、情けないほど震えた声だった。
そんなヴァルに追い打ちをかけるかのごとく、少女めがけて獰猛な害獣が飛びかかってくる。
そして、害獣の牙が凶刃となって彼女の薄い肩に食い込んだ。
同時に、眼前で赤い飛沫が舞う。
糸が切れた操り人形同然に、ゆっくりと少女の身体が仰向けに倒れていく。
「……っやめろおおおおおおおおおおお!!」
視界だけではなく頭の中まで真っ赤に染まり、勢いよく害獣の巨体に肩から体当たりをする。
害獣は嘘みたいに呆気なく天高く舞い、すぐに遠方の地面へと落下して轟音が空気を震わせた。
害獣の巨躯に押し潰された拍子に飛び散ったと思しき花びらが、風に乗ってひらひらと流れてくる。
しかし、今はそんなことはどうでもいい。
今は『あいつ』を助けなければ。
地に膝をついて少女の顔を覗き込むと、微風に流された髪で、彼女の目元が覆い隠された。
真っ白なブラウスの肩口は赤く濡れており、おそるおそる触れた指先にべったりとこびりつく。
のろのろと持ち上げて裏返した手のひらは、鮮血に染まっていた。
赤く汚れた手はまるで、罪の烙印を押されたかのようだった。
「ど……して……」
何故、『こいつ』を助けられなかったのか。
害獣が襲いかかる前に、どうして動けなかったのか。
『今』ならば、どんな脅威からだって『こいつ』を守れるはずなのに。
何故、どうしてと、疑問符ばかりが頭の中を埋め尽くす。
やがて、色褪せた絵画のように少女の姿がおぼろげになっていく。
咄嗟に手を伸ばしたものの、彼女に触れる前にその身は消失してしまった。
後に残されたのは、残酷なまでに美しいコスモスだけだった。
「あ、ああ……」
途方もない喪失感に襲われ、胸元をきつく握り締める。
今しがた起きたばかりの出来事を認めたくなくて目を閉じれば、瞼の裏に焼きついた少女の残像が心を蝕む。
「あ、ああ……ああああああああああああああああああああああああああああああ――!!」
喉が裂けんばかりの叫び声が、ヴァルの口から迸った。
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