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「ヴァル……。もう泣き止んだから、やめて」
ヴァルの胸を押して訴えれば、彼は渋々とした体(てい)でゆっくりとディアナから離れた。
涙なんて塩辛いだけでおいしくも何ともないはずなのに、どうしてあんなに一生懸命舐め取る気になれるのか。
ヴァルのコートの袖口で顔をぐいぐいと拭き、改めて彼に眼差しを注ぐ。
「……ヴァル、ここからどうやって出よう? この世界が私のフォルスでできていることは、もう分かるんだけど……。それに、フェイのことも捜さないと……。あ、ヒースもここにいるの?」
こんな力の使い方は初めてだから、何をどうすればいいのか分からない。
また、他の人たちの安否も心配だ。
頭を悩ませていると、ヴァルが無言でディアナの肩と膝の裏に手を差し入れてきた。
何をするつもりなのかとヴァルの動向を見守っていると、ひょいとあまりにもあっさりと横抱きにされた。
突然の事態に硬直してしまっているディアナを余所に、ヴァルは涼しい顔で立ち上がる。
「ヴァル?」
「ここで、いくら悩んでいても埒が明かないだろう。なら、何か手がかりはないか歩いて確かめてみるしかない。そのついでに、あいつらも拾えばいい。あと、あの赤髪もここにいる」
「で、でも……私、荷物になっちゃう……」
「お前は軽いから、全く問題はない」
「……ヴァルは、馬鹿力だもんね」
「放っとけ」
先程の力技を目の当たりにした後では、確かにこの程度では負担にならないのだろうと思えてくる。
ヴァルが力持ちでよかったと胸を撫で下ろしていたら、不意にぱらぱらと頭上から何かの欠片が降ってきた。
何だろうと振り仰げば、突如として再びあの大きな地鳴りが響いてきた。
咄嗟に身を竦めてヴァルの首にしがみつけば、ディアナを宥めるように、抱き上げている腕にさらなる力が加わる。
「……また、世界が壊れようとしているのか」
ヴァルの言葉に、こくりと頷く。
(でも、どうして……?)
今のディアナは、精神的に安定している。
とてもではないが、フォルスが暴走する状態に陥っているとは考えられない。
でも、そうしている間にも世界には亀裂が入っていく。
暗黒の壁がぼろぼろと崩れ落ちた後には、眩い光が溢れ出してくる。
その光景が吉兆なのか、または災厄なのか見当がつかない。
必死に辺りに目を凝らしていると、鉄製の扉が遠方で視認できた。
あれが、ここの出口であるという根拠は見つからないが、今はちっぽけな可能性にでも縋るしかない。
「ヴァル、あれ……!!」
ディアナが指差した方角に視線を向けたヴァルは一つ頷き、扉目がけて猛然と駆け出した。
疾風のごとき速さで、相手によってはしっかりと掴まっていないと振り落とされてしまいそうだ。
だが、ヴァルは常人ではありえない速度で走っているにも関わらず、ディアナを抱き上げている手から力が抜ける気配は一向にない。
むしろ、先刻よりも強まっているのではないのか。
獣の王者たる所以を、まざまざと見せつけられている心境に立たされる。
目的の扉が迫りゆく中、ヴァルは片腕でディアナを抱え直し、目と鼻の先となった扉を思い切り蹴破った。
そのままの勢いで、扉の向こう側へと跳び込む。
見事に着地した瞬間、扉は軋んだ音を立てて閉ざされた。
二人同時に安堵の吐息を漏らしたものの、すぐにはっと我に返る。
「そ、そういえば、ヒースたちのこと置いてきちゃった……」
いくら非常事態だったとはいえ、あの二人の存在が頭から抜け落ちていたなんて、あまりにも薄情ではないのか。
軽く恐慌状態に陥りかけたところで、ヴァルは小さな溜息を吐いた。
「……俺たちがこうして無事なんだから、向こうも何とかしているだろう。あいつらが易々とどうにかなるとは思えない。殺しても死にそうにないからな」
「そんな、不死鳥じゃないんだから……」
とはいえ、ヴァルの言う通り、二人共身体能力は抜群に高い。
同時に頭の回転も速いのだから、ディアナがそこまで気を揉まなくても大丈夫なのかもしれない。
しかし、だからといって懸念が全くないわけではない。
早く彼らの無事な姿を見て、安心したい。
何とはなしに視線を彷徨わせれば、暗闇に慣れた目にあの地下室の内装がぼんやりと映る。
一体、何故こんなところに繋がったのか。
戸惑いながらあちこちを見渡していると、ヴァルがたった今思い出したかのように声を漏らした。
「……そういえば、ここのドアからあの世界に行ったんだった」
「そうなの?」
初耳の発言に、じっと食い入るように彼を見つめる。
「ああ。お前とあの馬鹿が穴に落ちた後、勘でここに来てみたんだ。ここなら、お前たちがいる場所に行ける気がしてな」
「……それで、本当にそこから来ちゃったの?」
鉄製の扉を指差せば、ヴァルはあっさりと頷いた。
呆気に取られているディアナを意に介さず、ヴァルは扉の取っ手を掴んで引き開けようとする。
でも、がちゃがちゃと耳障りな音を立てるだけで、開きそうにもない。
仕舞いには、信じられないことにどこからともなく鎖が伸びてきて、扉の取っ手にじゃらじゃらと巻きついていく。
極めつけに、錠まで頑丈にかかってしまった。
心霊現象としか言いようのない光景に、背筋が冷える。
「……何なんだ、これは……」
茫然と零れ落ちたヴァルの言葉は、ディアナの心情も如実に表していた。
閉ざされた重い扉は沈黙を保ち、ただそこに佇んでいた。
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