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僕の名前は犬房犬太。都内の大学へ行く為今はひとり暮らしをしている。といってもここから実家との距離はそんなに遠くはないのだけれど……。
「猫??」
『あんたのマンション、ペット大丈夫だったわよね。四、五日だけ預かってて』
そういう具合にちょくちょく実家から頼まれ事をされる。家に居ると頼まれまくるから出たんだけどなぁ。
いつものように九時前に家を出た。しかし今日の一限目は選択科目……僕には関係ない授業だ。
――ガチャ
「……あ、おはようございます」
隣の部屋から出てきたのは艶やかで綺麗な亜麻色の髪に、白く透明感のある肌から広がる素敵な笑顔が輝く女性……姫咲さんだ。数ヵ月前に引っ越してきたのを見た瞬間、僕は恋におちたようだ。まさか自分が一目惚れってやつをするとは思わなかった。
「犬房さん……どうかしましたか?」
少しこちらを覗き込み、流れた前髪を耳に掛ける仕草も麗しい。全てが煌めいている。
「い、いえ……おはようございます」
「お勉強頑張って下さいね」
彼女はそう言ってピンクのワンピースを翻し足早に立ち去っていった。
僕にとってこの数分が至福……授業がなくても用事がなくても出掛けてしまう最大の理由だ。しかし話すのは他愛もない当たり障りのない会話。ただの隣人でそれ以上でも以下でもない。でも僕はこの数分に満足をしていた。このままでもいいかな……と。
だがそんな風に思うのは少しの間だけで、人間はすぐにそれ以上を欲する。どうして『欲』という感情を抱くのであろう……数ヵ月前の僕は、喋り掛けられただけで嬉しく、数週間前の僕は名前を呼ばれただけで舞い上がっていた。次第に『彼女をもっと知りたい』『彼女にもっと近付きたい』『彼女ともっと一緒に居たい』そんな風に思ってしまう自分の気持ちを抑えられなくなりそうでいる。
「そんな甲斐性ないや……」
勇気の無さ以前に自分の根本的な性格そのものを自嘲した。
チラリと彼女の部屋のドアを見る。
一目惚れをしていてなんだが、そもそも彼女の年齢や職業、彼氏がいるのか好きな人はいるのか等全く何も知らない。知っているのは姫咲という名字だけ。いや、好きになるのには十分なんだけど、そこでも欲が出てきてしまって全てを知りたくなる。
「昔はそんな事思わなかったのにな……」
吐き出すように小さく呟いた僕は、何処かで時間を潰して大学に向かうのだった。
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