第5話 潮解

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第5話 潮解

 実家で新年を迎え、結婚はまだせんのかはよう孫抱かせてやらんかいと近所のおっさんに絡まれ、姉の子どもに後頭部のじゃりっパゲを指差し笑われ、ようようマンションに戻り、仕事が始まり、俺は淡々と日常を取り戻した。一か月後には後頭部も生え揃った。女と別れたぐらいで世界が変わるはずもなく。  いや、その年の春いくつか変わったことはあった。平成が終わって元号が新しくなり、会社の書式はようやく和暦から西暦に差し替えられ、企業には従業員に五日の有給を取得させることが義務付けられた(派遣だろうがパートだろうが、週三十時間以上の雇用契約を結び、八割以上を出勤して、半年経過していれば、だが)。  そして、俺個人としてはただ一点、やたらと募金をするようになった。  駅で、病院で、コンビニで、ユニセフだろうが、あしなが学生だろうが、わんにゃん愛護募金だろうが、どこでもなんでもいつでも見境なしに。札か、あるいは小銭を数枚、時に近くのATMへ走ってまで、プラスチック箱の細い長い投入口にぐいぐい詰め込んだ。廻り巡って、いつかあいつに届くだろうかなんて、まるきりセンチメンタルか。別の星系へと廻り巡り辿り着くまで一体何世代、何世紀待たなけりゃならないのか。  残業が多い職についており、これといった趣味もなく、募金ぐらいの小金でこの快適な独身丸が沈むはずもなかった。しばらくすると周囲にも一風変わった趣味だと認知されるようになる。  そして一年が過ぎ、俺は後輩からクリスマス異業種交流会に誘われた。ミヤコがいなくなってから、早々に女と別れたという噂が広まり、多方面から合コンに誘われていたのだが、俺は全てを断っていた。失恋の傷が癒えてないわけではなく、端的に言えば、性欲が枯れ果てていたのだ。ミヤコでありミヤコあらざる魔性の――いや、異星の女に絞り取られて以来、ずっと。  後輩が俺を誘ったのは、人数合わせというより、修行僧じみた生活を送る俺を心配したからだろう。いつもは俺を放そうとしない会社の二代目もその日は快く送り出してくれた。もしかしたら(ぼん)の差し金だったのかもしれない。  お節介に違いなかったが、最近は冷蔵庫の箱も補充しておらず、一食分手間を浮かす心地で赴いた。  クリスマスという時節に配慮してか、異業種交流会は瀟洒なダイニングバーで開催された。そして俺の向かいには、色も華も愛想もないパンツスーツで銀フレームの眼鏡をかけた、眼光炯々とした女が座った。ニュースで時折見かける、家宅捜査で白い手袋はめて真新しいダンボール箱を運ぶ地検の捜査員がそのまま抜け出て来たような風貌だ。思わず着席した瞬間、地検ですか、と尋ねてしまえば、なにゆってんだこいつ的な吹雪の眼差し《ブリザード》に見舞われる。和やかな異種業交流はその時点で頓挫し、俺は飲食というか栄養摂取に専念した。  外で飲むのは随分久しぶりで、ペースがわからなくなっており、思いの外早く酔いが回ってしまう。そんな中、向かいの女が市の家庭児童相談係に勤める公務員だと聞くともなしに聞いた。市民からの通報、家庭からの相談、幼稚園や学校や児童館などの施設からも連絡を受けるという。すごーい、ストレス溜まりそう~という同情なのか野次なのかわからない声音に、公務員はそんなことないですよとシャンパングラスを傾けながら控えめに返していた。  俺はその『家庭児童相談係』とやらに興味を持った。一次会を終え、ダイニングバーから参加者がぞろぞろ出てくる両開きのドア脇に立ち、最後にお出ましした公務員を捕まえる。そうして二人きりの二次会に誘った。意外にも公務員は応じ、クリスマスイブのサイレンナイトに一組の男女が消えることになる。  ――何がそんなことないですよ、だ。ぬるい仕事してんじゃねぇぞ。おそらくはあまり幸福ではなかったであろう子ども時代のあいつに、どうして誰も気付いてやれなかったのかと俺は勝手に憤っており、要は八つ当たりだった。自分は強姦しようとしたくせに、だ。    しかし、八つ当たりされたのは俺だった。   入り組んだ路地の先、もう少しだけ足を伸ばせばラブホ街に入るという立地の、清潔感よりも哀愁漂う飲み屋に拉致され、公務員は品書きも見ずに梅干し焼酎お湯割りを注文すると愚痴の弾幕を浴びせてきた。宣戦布告もなしに。  ――市民だ、上司だ、マスゴミだ、老人の苦情、若者の無知、子どもの不幸、責任のなすりつけあい、雀の涙の予算組み、死ぬほど面倒な他部署への根回し。手を出せば伝書鳩は引っ込んでろと怒鳴られ、問題を見つければ面倒なことをしたと疎まれ、何も起きていない『現状』保持がお前の仕事だと言われ、でも辞めるわけにはいかないじゃない、と。  俺は心底後悔した。もう二度と関わるまいと心に誓うが、トイレに立った隙に、勝手にスマホをいじられ連絡先を交換されてしまう。  公務員は男もいなけりゃ友だちもいないのか、度々、俺を呼び出して盛大に飲み、くだを巻き、嘔吐してスーツを汚した。四度目の飲みの後、一体どういう流れだったか酔っていて覚えていないのだが、ラブホテルへと出陣した。別に責任転嫁しようとしているわけではない。ミヤコとの一件以来、勃起不全だった俺が素面で行けるはずもないのだ。  結論から言えば、俺は公務員を抱けた。  なぜなら、その二カ月後、公務員から『妊娠したからあんたは子どもの父親だ。籍を入れる』という妙な語順のSNSが入ったからだ。いやいやいやいや。時は平成が終わり次の元号が発表されたちょうど一年後――つまりは四月一日(エイプリルフール)。いやいやいやいや。  当然俺は疑った。当夜の記憶が曖昧であり、恥を忍んで下半身の症状も告げたが、公務員は、俺としか寝ていない、籍を入れる前に興信所を雇ってもらっても構わないけれど、生まれてからDNA鑑定をした方が確実ではないか、と見解を述べた。  公務員が言うのならば、間違いないのであろう。そう感じるほどには、俺は公務員のひととなりを知り始めていた。   某新型ウイルスにより延期に延期を重ねた東京オリンピックがようよう開催された年の冬、俺は双子の男女の父親となった。  双子の子育てはムリゲーであり、サバイバルであり、戦場だ。  公務員は、俺の伴侶であり、戦友であり、運命共同体となった。  敵は二匹の悪魔で怪獣で異星人だ。見事な連携プレーで、俺たちの平凡、平坦、平穏無事であるべき人生をことごとく殲滅しにかかる。電気コード綱引き、洗面器での入水自殺未遂、取っ組み合いの末に互いを窒息死させようというバイオレンスっぷり。一方が窓辺へ乗り出す冒険心を発揮すれば、もう一方はハンドソープを賞味しようとするグルメっぷりを披露する。  社長の勧めで、俺は男性社員の初の育休を取得した。配慮はありがたかったが、『育休』ってなんだ、『育戦』にすべきだろと、お上に届くはずもない愚痴をこぼした。そして一日と置かず二代目社長――坊は連絡を寄越し、あれどこ、これどうする、どっちにするの! とかしましかった。  いわゆる保活も行い、夫婦ともに育休明けは常勤、双子加点もあったのだがそれでも激しい接戦となり、最終的に抽選となったが、公務員は見事当選を引き当て、なんとか入園を決めた。  俺も公務員も仕事に復帰するわけで、もちろん家事育児は折半となる。どちらが得意とか、どちらが休みとか、どちらが早く帰れるとか、役割分担を交渉する暇もなく、ただ仕事と家庭を滞りなく軋みなく多少の汚れは無視して〝回す〟ということを主眼とし、俺と公務員は戦い抜いた。  双子が生まれ、俺は募金を止めた。最初は忙しさの波間に飲まれていただけだったのだが、多少の余裕というか慣れができた後もしなくなった。小金であろうと大金であろうと、マイホームにファミリーカーに学資ローンに医療保険、その他諸々切実なほど金が必要となったから。双子のために。俺はもう、いつか銀河を廻り巡ってミヤコに流れ着くかもしれない(・・・・・・)募金はできなくなってしまった。  もし、公務員に相談したなら、必要ならすればと、すげなく、理知的、端的に言われたと思うのだが、それでも俺はできなくなった。  双子を眺めていると時折、胸がきゅうと苦しくなる。まるで焼け付く夕日の初恋の症状だ。  娘を見れば、公務員の胎から出てきたものの、もしか〈卵種〉かもしれず、いつか旅立ってしまうのかと不安でならない。  息子を見れば、いつか彼女ができて人生の最高潮を迎えるも、相手が〈卵種〉かもしれず、俺と同じく置いてきぼりにされるのかと哀れでならない。  どちらも妄想だが俺を憂鬱にさせるには十分だった。  その精神安定剤として、俺はよく並んで眠る二匹を両腕広げていっぺんに抱き締めた。未来に対して何の保障にもならない抱擁は、いやになるぐらいセロトニンを大放出させて俺を幸福な心地にさせる。  今日も二人を抱き締めていると、その真ん中でうっかり寝落ちしてしまった。  一体どれほど眠りこけてしまったのか、夕暮れ色した部屋の中に、細い影が入り込んでくる。公務員が帰ってきたのだと半覚醒ながらも気付いた。  その日彼女は休日出勤で、俺が一日双子の面倒を見ていたのだった。気付きながらも眠くて眠くてどうしても起き上がれない。同時に冷蔵庫の箱はあと幾つ残っていただろうか、頭を回転させようとするが、鈍い軋みをあげるだけで動こうとしない。  と、公務員は屈み込み、双子の顔にそれぞれ唇を寄せ、それから最後に俺を抱き締めた。毛布を覆い掛けるに似た、やわらかくあたたかなそれ。  ――あんたが双子にやさしくするから、その褒美に抱き締めてやっているんだ。公務員は行為の理由を、そんなふうにうそぶく。   俺がやさしい? 嘘だろう、ミヤコにこれっぽっちもやさしくなかったというのに。  知ろうとする前も、知ってしまった後もやさしくなかった。それなのに俺がやさしくされるなんてあまりに理不尽だった。理不尽過ぎて泣きたくなるほどに。  でも、もしも。もしも俺が本当に小指の先分でもやさしくなっていて、やさしくされ返されたというのなら。やさしさは循環し、広がり、いつか還元されるだろうか。流れ流れて、遙か彼方、太陽系外惑星、何万光年その先で、誰かがあいつにやさしくしてくれるというのなら。  俺はもう募金をしない。  そうなんだー、別に気にしなくていいのに、という都合の良い幻聴が響く。  女が別れた男をいつまでも想っているのは幻想だと、世間ではよく言う。男の恋愛は保存、女の恋愛は上書きとも。しかし、俺の容量も財布も貯金も小さく、いつまでも保存できない。  きっと多分、近い将来、幻聴すら聞こえなくなるだろう。双子がいて、公務員がいて、忙しいから。総じてそれをなんと呼ぶか、俺は薄々気付き始めていた。  俺はミヤコを忘れる。強姦までして繋ぎ止めたかった女を忘れるなんて、吐き気がするほどの凄まじい身勝手だ。  だから、せめて、代わりに、今更、自己満足で。  銀河の片隅、うすっぺらでちっぽけでやすっぽいやさしさを無節操に蒔き散らす。おそらくは、ミヤコの言うところの下心とか打算とか気遣いに満ち満ちたやさしさを。大丈夫、安心しろ、きっとすぐに飽きるから。〈了〉
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