第2話 潮曇

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第2話 潮曇

 時は師走。クリスマスと年末を控えた街は、十二月の異称どおり、皆、早足で行き交う。深海をすいすい回遊する魚のように。カップルは足を止めてイルミネーションに魅入っており、彼ら自体が街の風景の一部と化していた。俺はといえば、仕事帰りの疲労と肩に掛けた荷物のお陰で、地上の亀じみた鈍足で歩みを進めていた。  それでも時折、ショーウィンドウに飾られた品々に目を奪われる。ブランド物のバッグやらマネキンが纏うコートやらきらびやかなアクセサリーやら。どれもこれもこの大荷物に追加したいとまでもは思わなかったが。そもそも似合わない。俺にもあいつにも、二重の意味で。  先週末の一件を思い出し、呼吸にしては重く湿った吐息が洩れた。歩きながら夜空を見上げる。イルミネーションやショーウィンドウ、あるいは隣の恋人に夢中で、他の誰も見やしない街の夜空を。  夜に排出されたなら、溜息も車の排気ガスも焼鳥屋の煙も、ただ白く漂い霧散する。けれど、胸の重苦しさは、よほど居心地が良いのかいつまで経っても去ろうとはしなかった。 「おかえんなさーい、遅かったねー」  玄関のドアを開ければ、姿は見えねど能天気な声が響いてきた。  玄関と部屋が仕切られていることを条件に探した1LDKマンションであり、荷物も下ろさぬままリビングへ通じるドアを開ける。そこにはコタツに入ってぬくぬくしている女がいた。 「……なんでいる?」 「ガスメーター裏の合鍵使って」 「そうじゃなく」 「お休みだから」 「だったら余計に」 「ご飯、用意しておいたよ」 「そういうのはいいから」 「コタツ出したんだね、センスあるー」 「さしすせそ、使い方間違ってるだろ」 「今日、泊まったら駄目かなあ?」  ミヤコは首元までコタツ布団を引っ張りあげ、「この寒空の下帰るのは絶対イヤです、ていうか面倒臭い」と無言の主張をする。俺は頷きもせずに荷物を床に下ろし、ミヤコの向かいのコタツへと潜り込んだ。  〝わたし異星人だったの〟発言の翌朝、俺はミヤコに派遣会社の担当者に電話をさせて有給を申請させた。  休日の朝っぱらから携帯を鳴らされた担当者は、当然ながらひどく不機嫌であったが、話をするうちにどんどん親身になってきた。  ――うちみたいな中小の派遣会社には有給なんかない、そもそも休みをとったらやる気がないと思われて契約切られる、君に有給なんて言われるとはびっくりしたよ(ここ裏切られたニュアンス)、僕としてはあなたに長く勤めて欲しいと思う、もしかして職場でトラブルでもあった? 相談乗るから週明けの夜食事でも――そこでスマホを奪い取り、労基に垂れ込むぞ下衆野郎! と叫べば、あっさり有給一週間分を取得できたのだった。  そうして愛車でミヤコを安普請のアパートまで送り届け、ゆっくり休め、とりあえず寝ろ、なんだったら医者に行け、なるたけ一人で受診してほしいがどうしても付き添いが必要なら連絡しろ、と告げて。  そして今日は週の半ば水曜日であり、コタツの天板の上に並べられた、肉じゃが、ひじきの煮物、きんぴらごぼうと、全て甘じょっぱい味付けのおかずをぱくつくミヤコはいたっていつも通りのミヤコであった。食欲旺盛、天真爛漫、健康優良な。 「今日遅かったね、どこか寄ってたの?」  ああ、と少し間を置き、ナップザックに詰めた荷物を一瞥した。 残業だらけの会社だが、週の中日はノー残業デーとなっている。というか、明日の居残りへの備えと言える。ともかく、いつもはもう一時間ほど早い。  別段、隠すほどでもない。図書館に寄ってきたと言えば、馬鹿の一つ覚えなのか、すごーい入れたのー、となぜか目を輝かせる。 「県立は午後八時まで開いているからな。残業しなきゃ余裕で間に合うぞ」 「あ、そうか。また間違えた。図書館は賢い人しか使っちゃいけないって勘違いしてたんだっけ」  あん? と疑問符をあげれば、ミヤコはだまされてたんだーと、ネジの緩んだ笑みを向けてきた。  曰く、図書館は賢めな人しか利用できず、偏差値平均六十五以上になったら晴れて図書館から利用カードが送られてくる、そう教えられたのだと。大人になって嘘だと知った今も、なんとなく敷居が高く行きづらい、と。  正直、呆れた。ミヤコ本人だけでなく、おそらくは軽い気持ちでこいつを騙してその事実すらすっかり忘れているだろう輩に。  詮無きことと思いつつ、俺はげんなり言ってやる。 「……小学生どころか未就学児だってうじゃうじゃいるだろ、図書館は」 「賢い両親から生まれた遺伝子的エリートチルドレンなのかなあ、って。だったらわたしが駄目な理由も納得できるし」  どうしてこう柔軟性に富んでいるというか、妄想力が豊かというか、無駄に納得力が高いのか。  よく味の染みた肉じゃがを頬張りつつ、 「明日も休みだろ。近くの図書館行ってこいよ。……なんだったら利用カードも作ってこい」  ミヤコは二三度、目を瞬かせた。そして、それもいいかも、と素直に頷く。その反応に正直なところ安堵した。有給をもぎとって得た休養はプラスに作用しているようだと。  食事が終わって洗い物をするミヤコの横にしゃがみ込み、冷蔵庫を開く。箱の数と中身を確認して、やや心許ない心地になった。今日が水曜、明日は朝から現場で夕方から会議で遅くなる、金曜の予定はなんだったか……物思いに耽っていると、ねえねえ、と頭上から声が降ってきた。 「この間は変な話してごめんね」  反省してる、と呟く横顔はいつになく神妙だった。普通の二十代後半の女みたく。俺はなんと言って良いかわからず、曖昧にああと声を漏らす。それでね、と躊躇いつつもミヤコは続けた。 「土曜日の午前って空いてるかな?」  一人じゃ行けなくて。追うように小さな呟きが落とされた。  ――御免被りたい。  というのが本音だった。つまりは病院に付き添えということなのだろう。  妙な間が空き、〝はい〟とも〝いいえ〟とも発するタイミングを失う。この座り心地の悪さはあれだ。学生カップルの女が「できたかも」と切り出してきた時の。ていうか、まさしくそのままだ。産婦人科か、心療内科か精神科か神経科か、行き先は違えど。俺は観念した。  真夜中午前二時。ミヤコはよく眠っている。白く安らかな顔で、軽い鼾をかきながら。  起こさないよう布団から這い出て、キッチンへと向かい、流し台上の蛍光灯だけを点けた。  どうして自分のマンションでミヤコ相手に気を遣わにゃならんのか。車を一時間走らせて特売の玉子買いに行くとか、添付ファイルのパスワードを次のメールで送るとか、波平のトリートメントとか、同じレベルの無駄加減なのではないかと思えてくる。  〝この間は変な話してごめんね〟――闇夜に見慣れぬ横顔が浮かぶ。そう、あまりに変な話だった。 〝わたし異星人だったの〟発言の後には続きがあった。よせばいいのに、あの夜、愚かにもどういった思考回路のもと〝異星人〟という結論が導き出されたのか俺は尋ねてしまったのだ。  ――この銀河には、太陽系外にも、知的生命体が棲んでいる惑星がいくつか存在している。  しかし同星系に属するそれらの惑星間で戦争が起こり、ある惑星は壊滅状態となってしまった。人々は移民船での脱出を余儀なくされ、移住可能な惑星を探す放浪の旅へと出る。しかし適した惑星はなかなか発見できず、旅は予想よりも遙かに永きに渡った。  移民船の人々には二つの使命があった。新たな母星たる移民先を探すこと。そして歴史や文化や科学技術、何より忌まわしき戦争の記録を継承すべき子孫を残すこと。  しかし、移民船は子を育てる環境が整っているとは言い難い。そこで彼らは自らに似た知的生命体が棲む星々へ、各星の出産形態に合わせて〈卵種〉を送り込んだ。  新たなる母星を見つけて住環境を整え、〈卵種〉が健やかに育ち、次の生命を宿す準備ができたなら、必ず迎えにくると約束して――  ミヤコの説明を要約し、想像で補い、推敲すれば、そんなような話だった、漫画だかアニメだか小説だかを部分部分パクったっぽい設定はまあいい。つまりは〈卵種〉とやらのお育ちバージョンがお前だとして、なんでまた唐突に覚醒しちゃったんだ? そう多少意地悪い気持ちで問うたのだった。  作業を終えて流し台の蛍光灯を消し、ベッドに戻ろうとしたが、なんとはなしにリビングを抜けてバルコニーへと出た。十二月の夜風は覚悟していたほど冷たくはなく、空気には湿り気が感じられた。なるほど、空は曇ってきており、星も月も見えない。   〝……潮が満ちたから〟  俺の問いに、ミヤコはそんな台詞を吐き出した。  ――本当はもっと前から引かれていたんだと思う。合図みたいのが定期的に送られていたけど、わたしは鈍くて受信できていなかった。でも、今回、身体の奥の奥の奥まで響き渡ったの。初日はいつもお腹痛いんだけど、それとはちょっと違う、〝どうん! 〟って砲弾みたいなやつが。普通は〝どーん〟って五キロ離れた市民花火大会ぐらいなのに。だからもうすぐ来る。もう、すぐそばまで来ちゃっているの――  女の身体は男にとっていまだ未開拓地(フロンティア)である。どれだけ歳をとろうと、経験を重ねても、奥の奥の奥の秘境である赤黒くぬめった沼地へと探索を進めても。それがたとえ残念女子であろうとも。  生理は、受精卵のベッドたる子宮内膜が、受精卵がこなかった時には不用となってはがれ、血液とともに膣から排出されることだ。通常三~七日間続き、二十八日ほどのサイクルでやってくる。  生理痛は、経血を排出させる際、プロスタグランジンという物質が分泌され子宮を収縮させることにより起きる。しかし痛みが我慢できないほどひどい場合、子宮内膜症や子宮筋腫など、他の病気のサインとも考えられるため、速やかな受診が勧められる。  スマホやら図書館の本で調べられたのは、かつて保健体育の授業で習ったのとほぼ同じ内容だった。決して、情緒不安定、妄想促進、宇宙との交信作用があるとは書いてない。生理の周期は月の満ち欠けとほぼ同じであり、その同期に着目したスピリチュアルなサイトは結構あったが。あと、満月の日に出産が多いとか。ウミガメの産卵やら孵化やら。  確かに月が及ぼす影響は大きい。その最たるものが潮の満干だ。月と太陽の引力が海水を引っ張るわけであり、一日の中で月が最も近くなるところで満潮(裏側では干潮)となる。そして満月・新月の月と太陽の引力が合わさる時には大潮が起き、下弦と上弦の月の引力と太陽の引力が直角に引っ張り合い相殺される時は小潮となる(児童図書コーナー『月の大研究』なる学習シリーズにて学んだので確かだろう)。  太陽は巨大だが、月は地球に一番近い天体であり、最も強い影響を受ける。  そして成人の身体の六割は水分であり、生理やら出産やらが月に支配されるという説は、まあまあまあ、わからんでもない。しかし、それは男も同様であり、俺自身、性欲やら精通やら影響を受けているかと言えば、この三十二年の人生で露ほどに感じたことはなかった。ってゆうか、気の持ちようというか、迷信とゆうか、都市伝説じゃね? ぐらいのスタンスである。ちなみに後になって調べたが、ミヤコが〝異星人〟発言したあの夜は、満潮でも大潮でもなかった。  大学時代、スピリチュアル系女子の美人に入れ込んだ時期があり、結局は時間と体力と自家発電の無駄遣いに終わった苦い記念碑(メモリアル)が心の裡に建っており、その刻まれた教訓から注意深くその手の女を避けてきた。  ミヤコとは異業種交流会という名の合コンで知り合い、第一印象は『簡単にやれそう』であり、事実そうであった。概ね俺の言いなりで、天然ボケと物知らずと料理センスを除けば、あまり面倒臭さを感じたことがない。だからこそ、二年半もずるずる付き合ってしまい、俺は三十路の橋を渡り、ミヤコは若さを売りにできるほどの鮮度を失った。  そんな女が今更になって、月だか、新たな母星だか知らんが、それに引かれた、合図を受信した、潮が満ちた、とのたまっている。やべえ。今日になって自ら病院を受診すると言い出したのは良かったが、どうにも雲行き不安だ。   ――そろそろ潮時かもな。日本中の溜息が投げ込まれ攪拌されたように濁った夜空を見上げ、俺はひとりごちた。
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