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第1話 潮騒
「ごめん、きちゃった」
三日間の出張を終えた週末、疲労とストレスと情欲が極限まで高まり、二年半つき合っている女を自宅に呼び出し、浴室から突き出された丸顔にそうのたまわれた時、男としてはどういう対応をとるのが正解なのか。
「…………はあぁ?」
〝は〟から〝あぁ〟の突き上げるようなイントネーションの一声は、おそらく巻末解答集に載っている模範解答とはほど遠いだろうが、男の七割は反射的にそう発してしまうに違いない。ならば割合的に正解として良いのではなかろうか。
ミヤコはウェーブのとれかかった黒髪から透明な雫を滴らせたまま「ごめんなさい」と繰り返す。叱られた犬のしょげっぷりで。いや、謝るぐらいなら止めろ。
不細工というわけではないが、美人では絶対ない。丸顔、丸鼻、垂れ気味丸目のせいで幼く、もっといえば情けなく見える。ただ色は白く、血色良く、もち肌で、さわらせてようやくまあぎりぎり平均点の女。
おまえさあ、とローテーブルに発泡酒を置き、ソファに横たえていた重い身体を自身で釣り上げる心地で引き起こす。三十路を迎えて数年、身軽さは発泡酒の炭酸をとどめようがないのと同様、徐々に失われつつあった。
「俺出張行くって知ってたじゃん。先方に頭下げて時間もらって、今さらな製品説明して、さらには上司の世話しなけりゃならなかったのも話したよな」
俺は資材メーカーに勤めているのだが、大手企業による検査改竄のあおりを受け、主に中小企業の社長やら担当者にウチのは安心安全安泰安価ですよと説いて回っているのだった。従来の顧客もあれば、新規開拓もある。〝ピンチをチャンスに!〟――とは、やる気だけが空回っている二代目気に入りの格言だ。俺は二代目の子守をしつつ、なんにも資材について理解していない坊に代わって粛々と実務をこなしたのだった。
だというのに。
「――きちゃった★って。あんまりにも思いやりに欠ける仕打ちじゃね?」
きちゃった、のところで戯画化された口調とポーズを決めてやれば、
「ごめんなさい。でも、★までつけてないよお」
「お、も、て、な、し、の精神はどこいったんだよ、日本人として恥ずかしくないのかよ、東京とばしてパリだぞ、クリステルに謝れ、お前」
う、う、う、とミヤコは口に出して呻く。そういうわざとらしさがおたくっぽいんだよな、腐女子ってやつなんだよな、なんで俺こいつなんかと付き合ってんだ、とそこはかなとないやるせなさに襲われる。
その物思いをぶち壊したのは、ぐしゃん、ぐしゅん、ぐっしゃん、というミヤコの濁点付きの三連続くしゃみだった。ついでに銀色の水滴も撒き散らし、床を濡らす。出張から帰ってきて着替えもそこそこにクイックルワイパーで磨いたフローリングを。
下半身が初冬の風に吹かれ、急速にやる気が萎えていくのを感じた。その分疲労とストレスがぐっとせり上がった気がして、ぐったりソファに身を沈める。
「……さっさと拭いてあがってこい」
「うん。ごめんね」
「腹減ってんだよ。飯にしてくれ」
「うん、ごめん。ほんとにごめんね」
「ああ、しょうがねえな」
「ごめんね、とっても」
「いいから、もう」
「ごめん。ごめんねなんだけど」
「しつこい、もういいゆうてるだろ!」
じゃなくて、と。叫んだ俺とは対照的にミヤコは冷静な声音で返し、ぬうと手だけを浴室から出し、指差しをする。その先には女の私物であるところどころ黒ずみ角には穴が空いたトートバックがあった。
すっぽんぽんでいいじゃねえか、今更恥ずかしいとか面倒くせえ、つかおまえ顎ならぬ指一本で俺使うわけ。
過ぎる思いは数あれど。
フローリングだけでなく、ネットオークションで競り落とした北欧ラグまでも汚される可能性に思い至り、俺は不承不承立ち上がった。血痕は染み抜きに難儀するのだ。
浴室の前にトートバックを置いてやり、その足で二本目の発泡酒を取り出すべく冷蔵庫に立ち寄る。開ければ中にはいくつもの箱が詰まっており、次に引き出した冷凍室も同様で、一見ひどく無機質な印象を受けた。けれど俺はその整然と並んだ様子に満足し、いくつか中身を確認して手前に出したり奥に押し込んだりして順番を変える。
あれ、全部つかっちゃったっけ、一個ぐらいあったと思うけど、あ、底にへばりついてた~、という間延びした声と、続く独特の紙音を背後に聞きながら思う。とりあえずは最寄りのコンビニへ走る事態は避けられたようだった。
結局、歩いてコンビニへ赴き、帰宅して整えられた食卓を眺め、俺は言い放った。
「いまいちだろ」
「そおかな」
「いやだってお前、どうしてグラタンとシチューが同時に並ぶんだ」
「どっちも美味しいよ」
「当たり前だ」
ローテーブルの上には、グラタン、クリームシチュー、自家製ピクルス(大根とセロリ)、白米、そしてなぜか冷や奴が並べられていた。全体的に白い。なぜシロモノばかりチョイスしたのか理解に苦しむ。単品単品が美味いのは食い物としての大前提であり、その組み合わせが料理のセンスというものだろうが、ミヤコにはその才が皆無だった。
ちなみに冷奴について言及すれば、大豆は元々野菜だからサラダの代わりということだった。いやまあ確かに枝豆だった頃は野菜かもしれんが。昔、レーズンを野菜だと言い張っていた中学の同級生がいたが、似たような話なのだろう。ちなみにそいつは先ごろ、美人OLと婚約したそうだ。俺あいつに負けているのか、ならミヤコにも負けているのか、人として……?
怖い顔してるよ、お腹痛いの、それとも頭悪い? ――ミヤコの物言いはこれで本気で心配しているのだからタチが悪い。よく派遣先の職場でやっていけるなと妙な感慨を抱いてしまう。
豆腐は明朝の味噌汁の実にする予定だった、と伝えれば、じゃあ半分残しておくね、と大雑把に冷奴を箸で割る。俺とミヤコの二皿とも。一皿だけ残して、もう一皿を二人で分ければ良かったんじゃねえの、と思わないでもなかったが、結局何も言わなかった。
しばらくもくもくと食事を摂る――このグラタンチーズみ足りなくね、とか、シチューの具がマンネリだ、とか、色合い的に人参のピクルスも入れるべきだろ、大体冷奴て腹が冷えるし、とかとか、ぼやきつつ。しかし、ミヤコはまったく意に介さず、ご機嫌に順々に皿を空にしていく。〝三角食べ〟というお節介な概念をまるで知らないように。
その満足げな様子を眺め、なんとはなしに視線を逸らしてから言う。
「……来週末の夜は絶対空けとけよ」
最後に残った白米だけを口に放り込み飲み込んでから、ミヤコは、なんで? と返してきた。
「なんでって、今日きちゃったからだろ」
「うん、だから来週末は無理」
「お前、そんなに長かったっけ?」
「うん?」
「うん?」
ああそっか、そうだよね、わかんないよね、しょうがないよねえ。そんなふうにうんうん頷く。
思わず、ミヤコのくせに生意気だ、と某キャラクターの台詞を真似てしまいそうになる。しかし、次の相手の動きにどう反応したものか、俺は眉をひそめた。
「何、してんだ?」
ローテーブルの向こう岸、ミヤコはあんぐりと口を開け、どこか物欲しげな眼差しを送ってきていた。
雛鳥が餌をねだる仕草に似て、シチューを掬ったスプーンでも突っ込もうかと思ったその時。器用にも口を半開きにしたままミヤコは言ってきた。くちでしようか、と。
「…………ばっ」
スプーンからとろり白濁液がこぼれてローテーブルを汚す。眼前にはオーバーサイズのスウェットでゆるい胸元。グラタンの油分で桃色に艶めく唇。洗い髪の女。というかミヤコ。
「っか、じゃねえ、お前! 口、超ド下手だろ!」
ミヤコの頭にチョップを放つ。その拍子にパペット人形めいてぱっくん口が閉じられた。え~、だってえとその口を尖らせる相手に、そもそもと続ける。
「お前が口でいかせられたためしないだろ」
「それはそっちにも原因があると思う。持久力ありすぎ。金メダル級」
珍しく詰る口調で反論されて、けれど腹が立つでもなく俺は頷き、
「まあ、一理あるな」
「短距離より長距離って感じ」
「まあ、マラソンランナーだな」
「金メダルってゆーか、棒メダルだけど」
「まあ、フォルムはな。硬さは金剛石級だけど」
ふふふ、となぜだか互いに笑い合い。俺は小さく嘆息した。
「阿呆言ってんな。……ほんとに一週間で終わらないのか?」
未練がましいと思いつつ、尋ねる。つまりは一週間以上続くということで、今までミヤコがそう申し出た記憶はなかった。だったら別の問題が浮上してくる気がするのだか。
ちなみに二十代の頃は最中の彼女とも行為をした経験はあるが、ミヤコ相手にはない。一週間忍耐が持たないほど若くはなし、そも子どもの頃に交通事故に遭遇して以来、流血沙汰は苦手なのだ。
ミヤコは不可解そうな面持ちをしていたが、やがてぽんと手を打ち、
「あ、ちがくて。生理じゃないの」
そんなことをのたまう。いやいやいや。今度はこちらが思い切り不可解な面持ちをしたのだろう。ミヤコは慌てて言葉を続けた。
「ううんと、生理じゃなくてってゆうか、生理は生理で来たんだけど、生理が理由じゃないってこと。あれでも生理のおかげでわかったから、生理のせいなのかな?」
俺に訊かれても。せーりせーり言われても。
正直なところ一瞬腹が立ったが、すぐに気持ちは凪いだ。というか、萎んだ。ミヤコが腕を組み、いかにもなポーズでうんうん声に出して唸りながら考え込んでいるから。実にわかりやすく、わざとらしく、言うなればオタクっぽく。
思い返せば、ミヤコが自分の誘いを断る自体こそ珍しい。俺にべた惚れ――というのももちろんあろうが、そもそもこいつには主体性がない。言われるがまま、流されるまま、蹴られるがままにどこまでも転がってゆく。その先に穴だの崖だの蓋の空いたマンホールだのが待ち受けていようが。だから、俺は律儀にも待ってやった。エアコンの暖気でわりあい水気が飛んだが、まだ半生状態の髪の女の言葉を。
そうして、おもむろにミヤコは口を開いた。
「……『竹取物語』って知ってる?」
「……あん?」
想定外のボールが投げられた。いやボールかと思いきや、生ダコだった、みたいな。迂闊にも間の抜けた声を上げてしまう。
「あ、ごめん。『かぐや姫』のこと。わかる? 知ってるかなあ?」
「おまえな」
まさか一般教養の面でこの女に心配されるとは思わず、口の横辺りにひくつきを感じる。
だが、ミヤコはわかるんだ良かったー、そっから説明しなきゃいけなかったらどうしようかと思った、さすがーと単純に喜ぶ。
「じゃあもしかして『天女の羽衣』とか『鶴の恩返し』とかも知ってる?」
「当たり前だろ。ってか、お前が知ってることで俺が知らないことがあると思われてんのが傷つくわ」
「そうなんだ、すごーい、さすがー」
「あのな、」
ミヤコは〝女の合コンさしすせそ〟――さすが、しらなかった、すごい、センスいい、そうなんだ――を会話の中で多用する。テクニックではなく本人の語彙の少なさゆえ。付き合い始めの頃は気にならなかったのだが、最近はひどく癇に障る。こいつもしや職場でも使いまくっているのだろうか。
眉をひそめたこちらに気付かず、ミヤコは続けた。
「簡単に言えば、かぐや姫なの」
眉の渓谷が深くなる。意味がわからない。こいつ馬鹿なの。俺の理解力のせいでは決してない。だが、ミヤコは俺の様子をまったく気に掛けず、さらにわけのわからんことを言い出した。
「わたし異星人だったの。おむかえが来ちゃったんだ」
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