P.D.D.

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ベッドに寝転んで目を閉じると、浴槽の静かな波を感じる。彼女が身じろぐたび、かすかな水流が柔らかな肌にはね返されて、水面に波紋が広がる。数分もせずに、ほのかに上気した白い足先が湯気の中から現れる。惜しむように身体にまとわりついた水滴が、一筋また一筋とほっそりしたふくらはぎを伝っていく。 濡れた髪は、ぶどうのつるのように彼女の背中に渦まいている。うっすら水滴の残る肌に白いぶどうの実をまとわせて、素足が床をすべって近づいてくる。 一歩一歩、彼女の気配が濃くなるごとに、心拍数が上がっていく。背中を細長い指がそっとはい上がってくる。湧き上がる欲と棘ついた嗜虐心がからみ合って、このままでは彼女を傷つけてしまいそうだった。 「…やっぱり浴衣、自分でやるとはだけちゃうんだけど」 媚薬のような吐息が耳もとをくすぐる。甘えるように鼻先がうなじをかすめて、熱い唇がそっと肌に触れた。 「…やめて。妹とはこんなことしないでしょ」 「え?何言って…」 「…セックス出来ればそれでいいなら、なんで旅行なんか…なんでこんな所…」 「そんなこと思ってたの…」 「…髪、乾かしなよ」 枕が飛んできて、ぼふっと後頭部に命中した。でも、悪いほうへ悪いほうへ呑み込まれていく思考を止めるには、こんな衝撃では優しすぎた。 燈子は、掛け布団をひとり占めしてベッドの隅に丸まっていた。そっと抱きしめて謝ればきっと彼女は許してくれるだろう、でもそうはできなかった。 結局、羽織の上に、持ってきたスプリングコートを布団代わりにして目を閉じた。でも、浴衣は少し丈が足りなくて、はみ出た素足に冷気が触れて早朝に目が覚めた。 時計は朝の五時過ぎを指していて、外はまだ薄暗かった。このまま、また眠れるとも思えなくて沙保は外に出た。 スプリングコートは置いてきた。浴衣に羽織を着ただけで、その上素足に下駄という格好では、朝の浜辺は寒さが堪える。でもそれでよかった。 冷たい潮風が、頭の中で沸騰したように渦まくものを少しずつ鎮めていく。 彼女は二人の時間を楽しもうとしていたのに、スケジュールに気を取られていた自分。つまらないことをいつまでも割り切れずに、自分の機嫌さえ取れない自分。くだらないプライドのせいで、彼女の好意を素直に受け取れない自分。そして、それでもまだぶつけ足りなくて、モヤモヤしている。 下駄を片手に持って、裸足で打ち寄せる波を蹴り上げながらそんなことを思っていると、バシャッと音がして浴衣のすそが派手に濡れる。振り向くともう一度、盛大な水しぶきが沙保を襲った。 「黙って一人で行かないでよっ」 すそが翻るのも気にせず仁王立ちしていたのは、ベッドで丸まっていたはずの燈子だった。凛とした姿はどこへやら、乱れたままの浴衣に、昨夜あのまま寝てしまったのか、いつもつややかな髪はやまんばのようだった。 突然背中をびしょ濡れにされて、カーッと頭に血が上っていく。 夜明けが迫っていた。今にも、瑠璃色の空と海とをまばゆい金色の光が切り裂こうとしていた。でもそんな光景には目もくれず、ばかみたいに言い合う声とバシャバシャ水をかけ合う音が砂浜に響いていた。こうなったらもう売り言葉に買い言葉で、思っていたよりずっとくだらない文句がぽんぽん飛び出してくる。 「んなっ…あんなはじっこで寝なくてもいいじゃん!お布団だってひとり占めするしっ」 「そっちだって、どうでも良さそうにさっさと寝ちゃったくせにっ」 「燈子さんが恋人同士に見られたくないとか言うからっ」 「分別くらい持ってよっ。だいたいなんであんなこと恋人に言えるのっ。私、私はっ…」 彼女がそう言いかけたちょうどその時、放り出していた二人の下駄を一際大きな波がさらっていこうとするのが見えた。後先考えずに飛び込んだ海は、肌に突き刺さるような冷たさだった。
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