P.D.D.

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木の葉のささやきを遮るように、コトリと木製のテーブルを小さく叩く音がした。うっかりウトウトしてしまっていたらしい。観光地のど真ん中にありながら、ふらりと休憩に立ち寄ったこのカフェには、あまりにも静かな時間が流れていた。今いるオープンテラスと店内を仕切るガラス戸は、開け放たれていて開放感があった。 うっすらまぶたを開くと、柔らかな木漏れ日のもと、コーヒーカップに添えられた白い指先が透き通ってしまいそうに見える。きれいだな、と目を奪われたのもつかの間、ハッと我に返る。そうだった、せっかく二人で旅行に来ているのに。 「おはよ、つかれちゃった?」 彼女の声は穏やかで、ひとまず安心する。でも、つい眠気にやられたのは、この店の雰囲気のせいでも、マイナスイオンのせいでもない。 旅行に行きたい、と言い出したのは彼女だった。三週間という、小劇場にしては長い公演期間の間のはなしだ。偶然ひと月後の休みが重なって、せっかくだからどこかに遊びに行こうか、と話していた矢先のことだった。次の日には海に行くことが決まり、その次の日には温泉に行くことが決まり、またその次の日にはもう宿が決まっていた。 「まだ春だよ?泳げないけどいいの?」 そんなことは分かっている、というふうに彼女は頷いた。 「海は泳ぐためだけのものじゃないでしょ」 よく分からない台詞をしたり顔で言うのがかわいくて、気づいたら沙保も首を縦にふっていた。 目的地が決まって、テーブルにはカラフルな旅行雑誌。だがそこからは沙保の仕事だった。同じエリアに分類されていても、移動時間がばかにならないことはよくあるけれど、気まぐれな彼女の希望の全てに沿うのはなかなか難しい。 「ここ、海鮮丼がおいしいんだって。行こ」 「そこだと車で往復する時間考えると、一日かかっちゃうけどどうする?」 「じゃあそっちの店で蟹食べる」 「そこもあんまり距離的には変わんないかも…」 こんな会話をくり返して、所々で色っぽい邪魔が入ったりしながら少しずつ作業を進め、「旅のしおり」のようなものが完成した。行き帰りの交通手段、レンタカーを借りて返すタイミング、観光地の効率的なまわり方、それなりに自信作だった。こういうのは公演中の気晴らしにもなったし、役者の沙保にとって、あらゆる計算の上で成り立つ舞台の制作工程にも似ていて楽しかった。 そう、その計画どおりにいっていれば、こんなふうに途中で力尽きることはなかったのに。 沙保の唯一の誤算は、恋人の気まぐれを計算に入れていなかったことだった。偶然見かけた酒蔵に寄ってみたり、ガラス工房の体験に飛び込みで行ってみたり、沙保は早々に計画を放り投げた。 彼女に振り回されるのには慣れているし、イレギュラーも時には楽しい。今いるこれまた偶然見かけたカフェだって気に入ったけれど、ここに来てなんだか気が抜けてしまった。彼女の行きたい所に合わせたのに、と少しだけ思ってしまう自分がいた。 だから、そんな自分を見透かしたようにこんなことを言われると、心臓がドキッとする。 「たのしい?」 「え、う、うん」 「ごめんね…、あんなにがんばって計画立ててたのに」 「いいよ、そういうのも楽しいし」 そう?と細められた目にいちいちときめいて、何だって許してしまいたくなるからげんきんだ。
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