P.D.D.

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ぷかぷか波間に揺れている下駄の鼻緒に指を引っかけた瞬間、追いかけてきた燈子の腕に背中にぎゅっと抱きしめられた。 「ばかっ、溺れる気っ?」 「だって下駄が…」 「そんなのどうでもいい!」 ずるずると波打ち際まで引っぱられて、砂浜に倒れこむ。こんな所を人に見られたらまた彼女を困らせてしまう。そう思って目を背けると、ぐいっと顔を固定されて、まぶたを閉じる間もなく、押しつぶされそうな勢いで唇が重なった。 すでにちらほらと早起きの宿泊客の姿が浜に見える時間だった。大胆に角度を変えながら長々と唇を触れ合わせた後で唇を離すと、燈子は泣きそうな顔をわなわな震わせていた。 「…満足?」 「え?」 「…これでもう誰が見たって恋人でしょ」 「待ってよ。私は、恋人ですってアピールして認められたいわけじゃないよ。ただ堂々としていたいだけ。燈子さんがそう思わなくてもいい。姉妹に見られたって別にいいけど、でもあんな簡単に頷いてほしくなくて…」 せっかく立てた計画はなし崩し、人前とはいえほんの戯れのようなスキンシップさえ嫌がられたあげく、「姉妹」だなんて。勝手に決めた部屋だってそうだ。散々ないがしろにしておいて、夜だけ求めてくるなんて。心の奥底でそんな風に思っていた。 「…ごめん、いっぱい傷つけたね。私、都合よすぎだよね…」 大粒の涙が燈子の頬を伝って、沙保の顔の表面にぽたりと滴った。温かなそれが最後のモヤモヤをゆっくり溶かしていく。 「ねぇ、燈子さん。さっき、『私は…』って何言いかけたの」 「…二人きりの時くらいは、周りに遠慮しないで過ごしたかっただけなのにって。でももう楽しむなんてむりだよね…」 「…楽しいよ、燈子さんと一緒なら」 「うそ」 「だって、こんなびしょ濡れで、砂まみれになって押し倒されるなんて、めったにないよ?」 燈子さんの予想がつかないところが好き、そう言うと、彼女は少しだけ恥ずかしそうに眉を下げた。 燈子が浴衣のすそをぎゅっとしぼるたび、濃紫のぶどうの肌を露が滴るようだった。薄闇にぼんやり浮かんだ白いふくらはぎが、ハッとするほど美しかった。信頼も、好意も、陶酔すら忘れていたようだった。気づくと、ぼんやりと思ったままがあふれ出ていた。 「…燈子さん、きれい」 「髪の毛ぼさぼさで、浴衣もこんななのに?」 「うん」 「…あのね、セックスしたいだけなら、こんな格好でわざわざ追いかけたりしない」 「…ごめんなさい。変な意地はって、最低なこと言った」 不思議と、すんなりと言葉が出てきた。ぐっしょり濡れた肩にすがりつくと、仲直りね、とでも言うように背中をぽんぽんさすられた。 「あーあ、びしょびしょ。せっかくかわいい浴衣選んだのに」 「…燈子さんから手出したんじゃん」 「だって、せっかくかわいい浴衣選べるホテルにしたのに、かわいいって言ってくれないし」 「…へ」 「せっかく露天風呂付きの部屋にしたのに、一緒にお風呂入ってくれないし」 「…うっ」 「沙保、公演でずっと忙しかったから、家事とか何にも気にすることないような所で、二人で楽しみたかっただけなのに」 「…ごめん、燈子さんの気持ち全然分かってなかった…。まだ間に合う?」 ふいに燈子はきゅっと身体を沙保に寄せて、かすかにあご先を上げて目を閉じた。 「…え?どういう顔?」 「…キスしての顔」 「…見られちゃうよ?」 「ばか」 ぐいっと浴衣の襟元を引っぱられて、唇が触れる寸前まで顔が近づく。ふわりと唇を押し当てると、彼女の口もとは小さくほころんだ。 二人は、砂を必死で払い落として、びしょ濡れの浴衣の水気をできる限りしぼって、ぺこぺこ頭を下げながら、フロントを通りすぎた。その先にある、朝の貸浴衣コーナーはまだ静かだった。 あれでもないこれでもないとお互いの身体に当て合って、燈子に押しつけられ…、もとい手渡されたのは、麻の葉模様の淡い青藤色が彩やかな浴衣だった。短髪の自分にはフェミニンすぎやしないかと思ったけれど、沙保の心の声は迫力のある笑顔で一蹴された。 「麻の葉の花言葉はね、」 「葉っぱなのに花言葉?」 「はぁまったく…。運命、よ。せっかくロマンチックなやつにしたのに」 また何にも見てないんだから、そうブツブツ言う燈子の横で沙保の顔は熱かった。不意をつかれて、躱すことも出来ない。 彼女に気づかれないうちに、沙保は赤い頬をぱちんとたたいた。やられっぱなしは性にあわない。 「愛しています」 「…え、え?なに、このタイミング?」 「…だから花言葉、これの」 そうぶっきらぼうに言って、差し出したのは生成りの地に黒い菊の花が咲いた浴衣だった。菊の花の濃淡が美しく、ところどころに混じる濃赤の菊の花があでやかだった。 「…」 「…燈子さん?嫌だったら別のにするけど、」 「…これ、昨日私が見せたもう一枚のほうなんだけど」 「えっ、あらぁ…」 いくらなんでも残念すぎる。三回目の「何にも見てないんだから」を言われると思ったら、意外にも彼女は照れくさそうに目を泳がせていた。 「また着せてくれる…?」 「もちろん。早く着たところ見たいな」 「…見るだけでいいの?」 色素の薄い瞳が、意味ありげに、そして少し自信なさげにこちらをうかがう。 「…起こさないで下さいってプレート、あったよね?」 小さくはにかんだ彼女に右手を伸ばすと、ひんやりした指先がきゅっとからんだ。 季節は春、ぶどうも菊もあなたも、今だけはこの腕の中。でもきっと、菊の花が咲き乱れ、ぶどうの実がたわわに実る季節になっても、あなたに手を伸ばしてしまうのだと思う。 すれ違って、ぶつかり合っても、つるのように手を絡め合って、そしてまた一緒に枝を広げていく。運命なんてものがあるとするなら、そうやって偶然を繋いで作り上げていくものなのかもしれない。 沙保は燈子の耳もとに唇を寄せてもう一度ささやいた。愛してる、と。
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