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思い出が生まれる場所で
夢を見ていた。
決して広くない部屋の中に、たくさんの人がいた。年老いた夫婦、子供たち、学生服を着た少年少女まで。可愛らしい犬もいる。
その人たちの中心で、私は笑っていた。夢の中にいる人たちも、みんな楽しそうだった。
幸せな光景だ。
とても幸せで……もう二度と、得ることのできない光景だった。
*
風邪を引いてしまった。
熱自体はそれほど高くはないのだけれど、体がだるくて、立っていることすらままならないほどだった。同棲してから、朝食を作るのは私の役割だと決めていたのに、今朝はそれが果たせなかった。
それでも智明(ともあき)くんは怒らなかった。謝る私をベッドまで連れていき、寝かせて、熱冷ましを貼ってくれた。たった今、智明くんお手製のおかゆを食べて、お薬を飲んだところだ。
「それじゃあ、俺は仕事に行くけど。ちゃんと寝てろよ?」
ベッドに横になる私を見ながら、智明くんが言った。私はそれにうなずいてから、少しだけ黙る。
「ねえ、智明くん」
「ん?」
智明くんは優しい顔をして、私を見つめている。出勤前で急いでいるはずの彼に、こんなことを訊いていいのだろうか。迷いながらも、やっぱり口にしてしまった。
「いつか、私たちも別れる日がくるのかな」
すると、智明くんはドアの前にいたところを、こちらに引き返してきた。怒られるかな、と思ったけれど、降ってきたのは怒鳴り声じゃなくて、温かな手のひらだった。私の頭を優しく撫でてから、
「俺は、別れるつもりはないよ」
と言う。私は、なんだかちょっと泣きそうになった。そんなわけがないと否定することもなく、ずっとそばにいるよと力強い言葉を言うでもなかったけれど、そこには、智明くんの強い意志を感じた。
「……ありがとう」
そう言うと、智明くんは小さく笑い、今度こそ家を出ていった。
別れるつもりはない。
そう言ってくれた智明くんに、本当なら私もだよ、と返すべきだったのかもしれない。だけど、今の私にはそれができなかった。
お昼頃まで寝ていると、だいぶ体が楽になってきた。ベッドから起き上がり、リビングに向かうと、ふたりで使っているローテーブルにおかゆが入っている器が、ラップに包まれて置いてあった。隣には薬と、置手紙がある。
【あっためて食べてください】
私は器をレンジに入れて、スイッチを押した。その間、お茶を用意しようと冷蔵庫を開く。
冷蔵庫の中には、野菜やお肉、買い置きのお菓子など色んなものが入っていた。お菓子は、智明くんの好きなものと、私の好きなもの、両方入っている。麦茶の入ったボトルは、智明くんが用意してくれたものだろう。それを手に取ってコップに注ぎ、あったまったおかゆと一緒に、ローテーブルへ。
うちのリビングはさして広くはない。ローテーブルにテレビ台、ローソファ―に棚を置いてしまえば、もう十分すぎるほどだった。
あれだけの人数、収まるはずがないのに、あの夢の中では、みんながこのリビングにいた。
私のおじいちゃんとおばあちゃん、小、中、高の同級生。私がこれまでお世話になった人みんなだ。可愛らしい犬も、私が名前をつけて、お世話をしていた。
だけど、それは過去の話だった。
おじいちゃんとおばあちゃんはそれぞれ他界した。飼っていた犬も死んだ。学校の同級生は、卒業してからそれきりだ。たまにラインをしている人もいるけれど、だいたいは疎遠になってしまっている。今でもお付き合いのある友人たちは、あの夢の中にはいなかった。小さかった子供たちはもう大人になっているだろうし、学生服も着ていない。
みんな、私の思い出の中の姿だった。
懐かしいと思うと同時に、なんだか切なくなった。
私は、もうあの人たちと話すことも、触れることもできない。当時は、あんなに仲がよかったのに、今では他人よりも遠い距離にいる気がする。
どうして今朝、智明くんにあんなことを訊いてしまったのだろう。別れる日がくるのかな、なんて恋人に訊かれて、不安にならない人はいないだろうに。
そもそも、私は智明くんと別れるつもりなんてない。
智明くんは優しい人だ。ちょっと押しに弱いところはもどかしく感じるけれど、気が利くし、真面目だし、私のことを愛してくれているのだな、とよく伝わってくる。今朝だってあんなに優しくしてくれた。
それがとても心地よくて、幸せで……たまに怖くなる。
彼も、夢の中に出てきた人たちのように、私のそばからいなくなってしまうのだろうか。
「……恋愛なんて、いつか終わりが来るものだけどね」
そうつぶやいて、私はおかゆを食べ進めた。
*
夕方ごろになると熱も下がり、気分もすっきりしてきた。晩ごはんを作っていると、智明くんが帰ってくる。
「おかえり」
「寝てなくて大丈夫なのか?」
おかえり、と返すより先に、智明くんは心配そうに訊いてくるので、小さく笑ってうなずいた。それを見て安心したのだろう、よかった、と言うように笑い返してくれた。
「プリン買ってきたんだよ。あとで一緒に食べよう」
「やった、楽しみにしてる」
そう言いながら、私はほっとしていた。今朝の一言のことを、智明くんは気にしていないようだ。その方がいい。不安にさせてしまったとしたら、申し訳ないから。
私が作った夕食を、智明くんはおいしそうに食べてくれた。鶏肉を煮て大根おろしをかけたさっぱりとしたメニューは、さっき見たテレビで覚えたばかりのものだったけれど、喜んでくれたようだった。
洗い物は俺がやるよ、と言ってくれたので、お願いすることにした。私はテレビを見ながら、ちらっと智明くんが洗い物をする姿を盗み見する。智明くんが家事をするところを見るのが、私は好きだ。上手く言えないけど、落ち着くっていうか。しかしあんまり見ていると智明くんに恥ずかしがられるので、テレビに集中することにした。
「なあ、雪菜」
「んー?」
モニターから流れる能天気な笑い声に感化され、間延びした返事をする。しかし智明くんの声は真剣なものだった。
「今朝、雪菜が言ってたことだけど」
「…………」
「いつか別れる日が来るのかなってやつ」
智明くんを振り返ると、真剣な顔をしてこっちを見ていた。私は、手足が冷たくなっていくのを感じた。
「俺たちはたしかに、ずっとは一緒にはいられないんだと思う。どっちかが死んだりとか、他に好きな人ができたりとか、理由はいっぱいあるんだろうけど」
夢の中にいた人たちの笑顔が、頭をよぎっていく。時の流れと共に過ぎ去って、私のそばを離れていったものたちだ。
「でも、俺はさ」
智明くんが水道を止めて手を拭き、こちらに近づいてくる。私の正面に腰を下ろして、まっすぐこちらを見つめた。
「俺は、雪菜のことが好きだよ。けんかしたり、嫌なこともあったりしたけどさ、それでもお前と一緒にいたいと思ってる。だから今朝言ったように、別れるつもりなんてない。……けど、雪菜は違うのか?」
先ほどほっとしてしまった自分を殴りたくなった。智明くんは、私の何気ない一言をずっと気にしてくれていたのだ。そして今、私の気持ちと向き合おうとしている。
「……ごめん」
そう言うと、智明くんの表情がこわばった。あわてて付け足す。
「違うの、そういう意味で謝ったんじゃないの。……今朝あんなことを言ったのは、不安になって」
「不安?」
「今朝ね、夢を見たの。私とこれまで仲がよかった人たちがみんな集まって、笑いあってた。……でも、私にはもう、あの人たちと触れ合うことはできないから。それで不安になったっていうか」
おぼつかない私の話を、智明くんはちゃんと聞いてくれている。
「……怖くなったの。いつか智明くんも、あの人たちみたいに、私の思い出になっちゃうんじゃないかって」
「……先のことは誰にもわからないよ。だから、そういう未来もあり得るのかもしれない。だけど」
智明くんが私の手を取る。今朝私の頭を撫でてくれたときと同じ、温かくてしっかりとした手だった。
「俺は、雪菜のそばにいたいと思ってるし、雪菜といられるこの時間を、大事にしたい」
その言葉とまっすぐな瞳に、ちょっとだけ泣きそうになった。
「……うん、ありがとう」
笑いかけると、智明くんも柔らかな表情になってうなずいてくれた。
「それにさ、思い出って、つらいことばっかりじゃないと思う。その人たちとの思い出の中にも、楽しかったものはあるんじゃないか?」
その問いかけに、私はうなずいた。おじいちゃんやおばあちゃんとのんびりお話をしていたとき、同級生たちと遊んでいたとき、愛犬の背中を撫でていたとき……。思い出すと、胸が温かくなるエピソードは、たくさんあった。
「じゃあ、楽しかった思い出を大切にしていけばいいんだよ。それにさ、そういうふうに思える別れがあったって、幸せなことだと俺は思うな。それだけ、大切な人とめぐり会えたってことなんだから」
「そっか……。……うん、そうだよね」
智明くんの言葉を聞いていくうちに、どんどん胸が軽くなっていった。
「……智明くんは、そういうふうに思える大切な人って、いた?」
「俺か?」
「うん、知りたい。……私の話も、よかったら聞いてほしいな」
そう言うと、智明くんは小さく笑って、話し出してくれた。
私の知らない人の話。私の知らない、智明くんの話。それなのにどうしてか、聞いていると心が温かくなるようだった。
思い出すとちょっとつらいけれど、それだけ私に大切なものをくれた人達。その人達とつくっていった、楽しい思い出。それらを思い出しながら、智明くんを見た。
その人達と作った思い出以上に幸せなものを、この人と育んでいきたい……なんて、口にするのは恥ずかしすぎるから、今はただ、彼の手に自分の手を重ね、その温かさを感じていよう。
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