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プロローグ
私と先生が付き合い始めたきっかけは、他愛もないことだった。先生の名前は佐久間弘、町の隅にある小さな自動車教習所の指導員だ。四十四歳、私より二十歳上の佐久間先生は実際の年齢よりも若く見える。が、奥さんがいて小さな子供がいる、らしい。
なぜ、その先生と付き合うことになったのか。自動車の練習中、遠距離恋愛中のカレシとのことを相談しているうちに、いつの間にかこうなっていた。だけど、ラインのやりとりくらいの付き合い。
進展し始めたのは、卒業検定の数日前。佐久間先生のラインからだった。
『いよいよ。卒検だね』
『はい、明後日。見極めA判定だったら卒業です。見極めって難しいですか』
先生から『ああ、とーっても……』というラインが届いて、少し落ち込んだけど、『なーんて、ウソ。練習のときの通り、出来ればね』のメッセージのあと、OKのイラストのスタンプが貼られていた。
『先生に何かお礼しないと……』
『お礼なんていいよ。僕は三浦さんが無事卒業出来るのが一番嬉しい。だけど、卒業したあと東京に行っちゃうのは寂しい』の後に涙の絵文字があった。涙が出そうになる。
『先生、デートしてもらえますか? 私が、教習所卒業出来たら……。……ダメかな』
『イイね。デートしよう。卒業祝いにね』
その夜、遠距離恋愛中のカレシから連絡があった。もう、別れよう、という連絡が……。
その夜、私は一睡も出来なかった。
気がついたら、泣いていた。
窓の外は闇に包まれていた。時々、聞こえるのは新聞配達のバイクのエンジン音。音を立てたポストにゴットンと落ちる新聞の音。時計を見た。まだ、朝の三時過ぎだ。
佐久間先生にラインを送った。『会いたい』って。先生に心のスキマを埋めて貰いたかった。
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ラインを送って五分くらいしたとき、スマホが鳴った。
えっ……?
佐久間先生からのメッセージには、『じゃ、今から会う?』とだけ書いてあった。
涙が溢れた。
イイエ、今は先生にワルイから、と断ろう。教習所で会えるから……。
だけど、私は『うん……』とだけ先生に送り返していた。
:
私は、ベッドの上で膝を抱えて待っていた。窓の外は明るくなり始めていた。外が動き始める音がしていた。どこかからヘッドライトの光が伸びて、窓に当たる。
窓の外を見下ろす。少し背の高いシルバーの車……。先生の車が少し離れた交差点でハザードランプを点けて止まっていた。
『今、近くに来たけど行こうか、家の近くまで……』
:
気が付くと、家を飛び出していた。スリッパのままでペタペタと先生の車に向かっていた。
佐久間先生が車から降りきた。
「おはよう」と手を上げて、助手席のドアを開けてくれた。
太陽が登る方向に車が滑り出す。
「イイよね。この時間って空気が澄んでいて……」
「……ですね。」
「ああ、この前の月九さあ……。ちょっとイマイチだったよね」
木々の緑が朝の太陽で眩しかった。
何で、私があんな時間にライン送ったのか。何があったのか、先生は触れようとしなかった。
:
午前六時半。気が付くと、先生は私の家の前に車を止めてくれた。その指がハザードランプのボタンを押した。ラジオ体操の子供たちがスタンプカードを首に吊るしてふざけているのを横目で見ていた。
「……じゃあ、また教習所で……」
先生に抱きしめて貰いたかった。ギュッと強く。言わなきゃ。勇気を出して言わなきゃ……。だけど、彼には奥さんがいるし……。私の中の天使と悪魔が私に囁く。
「……っと、あの……一回だけ私をギュッと強く抱きしめて頂けませんか?」
ああ、言っちゃった。
先生に嫌われてしまうかも……。身体が震えた。だけど、無理だ。私の心を支えてくれる人のいない生活なんて。
あっ……。
ふっと、肩が引き寄せられる。
ふわっと、運転席に吸い込まれる。私は次の瞬間、佐久間先生の腕の中にいた。
熱い先生の手のひらが、私の背中を滑る。髪を撫でる。擦れた布の音。他の音はない。
:
「じゃあ、後で……」
先生が白い歯を見せる。
恥ずかしくて先生から目を逸らせた。
「……うん……」と言う私の心臓はパンクしそうだった。
:
「きゃああああ……」
叫びながら、ベッドに飛び込んだ。固いベッドのクッションが私を受け止める。
胸に手のひらを当てる。先生の顔を思い出す。ギュッのことを考える。胸の奥がキュンと鳴く。
二十四歳の私は何も知らない少女のようだった。
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