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★★
「へい、旦那、何処まで行かれますか?」
タクシーの運転手は威勢よく北沢に声をかけた。
「墨田区のJR両国駅まで行ってください。その後は私が道案内しますので」
「かしこまりました。これから首都高速に入りますので宜しく。この雨じゃ、ちょっと時間がかかりますかな」
「そうですか。でも、止むような気もしますが」
「そうなることを祈りますか、旦那、今日は何処からお帰りで…」
「福岡からです」
「それはそれはお疲れのことでしょうな。坊ちゃんもさぞかしお疲れのようで。それにしても、旦那は関取なんですか?両国といい、旦那のお身体といい、関取に見えますなあ。間違っていたら御免なさいよ、遠目にお顔を拝見したときは、西郷隆盛の再来かと、一瞬、目を疑いましたがね」
「そうですか、よく間違えられるんですよ。学生時代まではラグビーをやっていたものですから」
「ラグビーですか、それはそれは。旦那がスクラムを組んだら鬼に金棒ですな。わぁはっはっは‥‥」
・・・・もう、静かにしてくれないか。彼女の記憶が掻き消されそうだ。仕方ないか、ここは話し相手になるか。
「あなたも体格がよさそうですね。私とスクラム合戦でもしますか?」
「旦那、そんな冗談は止してくださいな。わしなんか弾き飛ばされちゃいますわ。あれ、雨が小降りになっていますよ。雲間にうっすらと明かりの気配がしますぜ。旦那、旦那、なんだ眠られたのか?邪魔をしちゃいけないなあ‥‥」
・・・・"さちざわ みわ"とか言っていたな、他人のような気がしない。亡き妻の再来のような気がしてならない。花火大会の夜には来てくれるだろうか?この子は、来てくれるものと思い込んでいる。ママが天国から帰って来たと思い込んでいるのだ。いっそのこと、到着したとき、俺は無理やりにでも彼女を引き連れ、人目などは構わずキッスでもすればよかった。思いの丈をぶっけるには態度で示すしかないというのは重々わかっている筈だったのだが‥‥。だが、妻が亡くなってまだ四十五日も経ってない。そんなことは許せるものではない。今となっては、花火大会の夜に来てくれるものと信ずるしかない。いや、駄目であっても、俺を忘れないで欲しい、ただ、それだけは切に祈りたい。せめて、このタクシーの運転手のように、俺の表向きの顔、姿、形だけでも信じて欲しい。
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